コンシェルジュリー/サント・シャペル(パリ)

コンシェルジュリー/サント・シャペル(パリ)

パリの歴史は、セーヌ川の中の島・シテ島に始まります。フランス王国の始祖、カペー朝はまずここに居城を構えます。その後、歴代王朝はパリのあちこちに居城を移しますが、シテ島の居城跡は王国のシンボルとしての役割を果たしてきました。

1つは、コンシェルジュリー(Conciergerie)と呼ばれる司法機関。もう1つは、「聖なる礼拝堂」を意味するサント・シャペル(Sainte Chapelle)。この地区一帯はパレ・ド・ジュスティス(palait de justice=司法宮)と呼ばれ、現在も最高裁判所をはじめパリの司法機関が集まっています。

セーヌ川右岸から見るコンシェルジュリーは4つの塔を抱えるゴチック様式の建物で、えらく横に長く、ひと際目を引きます。現在も裁判所や警察の機能として使われていますが、一部はフランスの歴史を象徴する場所として観光名所となっています。

セーヌ川対岸から望むコンシェルジュリー外観


コンシェルジュ(concierge)はフランス語で「管理人、守衛」を意味し、したがってコンシェルジュリーは「守衛詰所」となります。王宮が移った後の当地は牢獄としての機能を果たすようになり、その管理を任された「コンシェルジュ」からその名前がきています。王政の裁判を管轄したパリ高等法院もこの地に置かれましたが、フランス革命(1789年)勃発とともに廃止されると、今度は革命裁判所に隣接する牢獄として使われました。ここに収容されたら生きては帰れない、と言われました。革命後の恐怖政治のもと、王政時代には支配者階級であった王族や貴族ばかりでなく、革命に貢献した人間でもその内部抗争から、革命裁判所が設立されてから恐怖政治の首謀者ロベスピエールが処刑されるまでの1年数カ月の間に約2800人がそのまま断頭台の露と消えることとなります。例え国内に不満分子を多く抱え、ヨーロッパ諸国全体を敵に回すなか、革命防衛に必死の思いだったとしても、民衆の狂騒に支えられた暴虐はフランス革命の暗黒面として特筆されます。崇高な革命の理念も、行き過ぎると極端な残虐へとつながるのは歴史の教えるところです。

その犠牲者の最たるが「悲劇の王妃」マリー・アントワネットで、コンシェルジュリーは彼女の悲劇とともに語られます。フランス革命勃発と同時に、マリー・アントワネットと夫ルイ16世は押し寄せた人民によってヴェルサイユ宮殿から引きずり出され、パリ中心のチュイルリー宮に留め置かれ、監視体制にありました。そこで、マリー・アントワネットは愛人と言われたスウェーデンのフェルセン伯爵(『ベルサイユのばら』で有名)の導きのもと、家族とともに当時、王妃の故郷オーストリアの属国であったベルギー方面へと亡命を試みますが、途中、ヴァレンヌという村で見つかってしまい、パリに連れ戻されます。しかし、立憲君主制度のもとルイ16世は強硬な姿勢をとり続けたため、家族とともにタンプル塔(元修道院で、革命時に監獄として利用される)に幽閉されます。結局、議会は王権を廃止、共和政樹立を宣言、ルイ16世が死刑に処せられたのが1793年1月21日でした。

大国オーストリアの皇女としてマリー・アントワネットがフランス宮廷に嫁いだのはもう20年以上も前、当時はそれまで常に敵対関係にあった両国の橋渡しとして歓呼を以てパリに迎えられました。しかし、王族としての持って生まれた天真爛漫な性格から、その贅沢三昧な生活がフランス国民の批判を浴び、革命後の諸国との戦争に当たっては母国オーストリアに軍事機密情報を流したと、その威信と人気は凋落していました。ただ、フランス政府は諸外国との戦争が不利になると、王妃を外交手段の切り札に使おうと幽閉したままにしていましたが、とうとう「王妃も裁判にかけるべきだ」との声が強くなり、タンプル塔からコンシェルジュリーへと移されます。タンプル塔ではすでに王太子ルイ・シャルル(ルイ17世と命名される)と引き離されていましたが、この時、王女マリー・テレーズや義妹エリザベート(ルイ16世の妹)とも最後の別れを告げることとなります。

マリー・アントワネットがコンシェルジュリーの独房に入れられていたのは、1793年の8月1日から10月16日までの2カ月半。死刑判決の裁判の結果を受けたとき、彼女は少しも取り乱したところがなかったといいます。人民の罵声を浴びながら、荷車に後ろ手に縛られて革命広場に引き連れられて行く姿は、白髪に染まり、病苦にやつれ果てた老婆のようだったと言われます。断頭台に上がった彼女が集まった民衆を前に発した最後の言葉は、「さようなら、私の子供たち。私はあなたたちの父親のところへ行きます」といいます。最後まで人民の親としての王政を疑わない、王家の一員としての誇りがあったのでしょう。極めて単純な女性で、普通なら王妃として恵まれた人生を送ったでしょうが、歴史の運命に翻弄された哀しい犠牲者であったからこそ、現代に至るまで哀惜の念を以て語り続けられるのでしょう。

そのコンシェルジュリーはそれ以前の歴史も有しているだけに、入り口を入るとまず2000人の近衛兵のための食堂に使われただだっ広い「衛兵の間」があります。1階には、他に囚人たちが閉じ込められた独房や廊下などが復元されています。

王政復古時代のルイ18世(ルイ16世の弟)による「マリー・アントワネットの贖罪礼拝堂」は、マリー・アントワネットの独房のあった場所です。残っている資料をもとに1989年に復元され、王妃にまつわる調度品などがあります。隣接するシャペルは、王妃を取り巻く人びとの肖像画や彫像などで飾られています。

2階にはフランス革命時代の裁判所の変遷をパネル展示で紹介する部屋とともに、革命裁判所で裁かれた4000人を超える人名の記された「名前の部屋」もあります。

コンシェルジュリー「衛兵の間」     

コンシェルジュリー「マリー・アントワネットの贖罪礼拝堂」


サント・シャペルは、初期のカペー朝時代にルイ9世が東方ビザンチン帝国皇帝から買い求めたキリストの茨の冠など聖遺物を納めるために13世紀に建立したゴチック様式の教会。ルイ9世は徳義を重んじ、後世に「聖王」と呼ばれ、君主としては珍しくカトリック教会から列聖されもした(シテ島に隣接するセーヌ川の中の島、サン・ルイ島や、アメリカの都市セント・ルイスは彼の名前に由来する)。十字軍にも熱意を燃やした。サント・シャペルは階段を上ると一面に聖書の物語を描いたステンドグラスが広がり、その細密さは当代第一と讃えられる。

サント・シャペルの概観         

       サント・シャペルのステンドグラス


コンシェルジュリーとサント・シャペルは共通券があります。

フランス事始め

政治から文化まで世界のモードを牽引してきたフランスを多面的に論じ、知識・理解を深めてもらうことで、我々の人生や社会を豊かにする一助とする。カテゴリーを「地理・社会」「観光」「料理」「ワイン」「歴史」「生活」「フランス語」と幅広く分類。横浜のフランス語教室に長年通う有志で執筆を手掛ける。徐々に記事を増やしていくとともに、カテゴリーも広げていく。フランス旅行に役立つ情報もふんだんに盛り込む。

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