ジャンヌ・ダルクとナポレオンからフランスの歴史をみる

ジャンヌ・ダルクとナポレオンからフランスの歴史をみる

フランスの歴史上の有名人物というと、真っ先にジャンヌ・ダルクやナポレオン・ボナパルトの名前が挙がるでしょう。二人ともフランスに攻めて来た外国の勢力を蹴散らしたのだから、フランス人にとってはなおさらでしょう。しかし、この二人は単に救国の英雄というだけにとどまりません。フランスの歴史、ひいては世界史において、大きな意味を持つ存在だったのです。


1、フランスは最初は小さな国だった

聖少女ジャンヌ・ダルクはイギリスとの百年戦争(1337-1453年)において、それまでイングランドに攻め立てられてジリ貧だったのを、オルレアンを解放することによってフランスを救った英雄として知られています。百年戦争については機会を改めて詳述しますが、この戦争はフランス人に初めてフランスという国家意識を芽生えさせたところに意義があります。

日本ではそれより少し前の鎌倉時代に、中国・元のフビライ・ハンによる元寇の役の際に全国の武士が団結して祖国防衛に当たったことが日本国を具体的に意識するきっかけとなりました。ある民族共同体がそれを束ねた国家という意識を持つようになるのは外国からの侵略を受けたときなのかもしれません。

我々現代人にとっては、フランスというと例の六角形の国土をすぐ思い浮かべますが、最初はすごく小さい国だったのです。ゲルマン民族の大移動のあと、カール大帝のもとヨーロッパに広くまたがる巨大なフランク王国ができましたが、それが3つに分裂してフランス、ドイツ、イタリアの基となったことは皆さんも世界史の時間で習ったことと思います。「フランス」の国名は、フランクのラテン語読みが訛ったものです。しかし、その西フランク王国は内部で群雄割拠状態となり、とりあえずパリ伯のユーグ・カペーがフランス王となります。

しかし、このカペー王朝が後継としてのヴァロア王朝、ブルボン王朝を含めて、フランス革命が起きるまでフランス王として君臨し続けたのは不思議な気がしてなりません。なぜなら、カペー王朝の領土はパリと、オルレアンなどその周辺でしかなかったからです。

カペー王朝の時代には、イギリスに近い海岸部には北欧のノルマン人が進出して(ノルマンディーの地名の由来)、イングランドまで征服(ノルマン・コンケスト)してしまう巨大勢力がありました。次には、フランス西部のアンジェを拠点とするアンジュー帝国が出現し、こちらもイングランドとの婚姻関係を機にプランタジネット朝を興すことになります。そうした経緯から、百年戦争が始まる時点では、フランス国内にイングランドの領土が特に南西部を中心に幾らでもありました。

フランス王室はそうした逆境を乗り越えて、今のフランス国土に当たる範囲にまで国土を広げていったのです。それは軍事的に征服した地域もあり、また婚姻政策や寄贈によって獲得した地域もあります。したがって、フランス全体の首都は少なくとも10世紀以来パリから動いていません。日本の政治の中心は奈良⇒京都⇒鎌倉⇒京都⇒江戸(東京)と数度は動いており、そうした変遷が普通であるとすればフランスの歴史の特異性が窺えます。

ですから、パリの歴史を辿ればフランス全体の歴史が分かる、といっても過言ではありません。もちろん、それぞれの地方にはそれぞれの歴史や文化があります。ケルト人の住む北西部のブルターニュ、ブルゴーニュ公国という中世の華を開かせたブルゴーニュ、地中海文化を色濃く残すプロヴァンス等々。

近代国家の多くは、中心的な権力がその周辺の権力を凌駕し、言葉や教育まで含めた統一的な制度のもとで国民国家を目指す過程でありました。その過程で、多くの地方の歴史や文化が失われていったのも事実です。第二次世界大戦後は、そうした地方の歴史や文化を見直そうとの運動も盛んになり、フランスでも交通標識にフランス語とともに地元の言語を表記したり、学校でも地元の歴史や文化を改めて教えたりするような試みもなされています。そうした地方の歴史と文化も、当サイトでは折に触れて紹介したいと思います。

さて、そのフランス王国の支配地ですが、下の地図を見てもらいましょう。百年戦争が勃発した14世紀半ばの時点では王領地はまだごくわずかで、王領地より多くイングランドの領土がその南西部にありました。

1360年時点でのフランスにおける領土圏(岩波新書『フランス史10講』より)


イングランドはこの時代には、大陸と深い関係を持っていました。それは、そうでしょう。ノルマン・コンケストによってイングランドを征服し、ノルマン朝を打ち立てた征服王ウィリアム(フランス名ギョーム)は、もともとノルマンディー公でフランス王の臣下に過ぎませんでした。

そのノルマン朝を引き継いだイングランドのプランタジネット朝の祖、ヘンリー2世もフランス王臣下のアンジュー伯爵です。このアンジュー伯爵はもともとアンジェを中心とするパリの西部地方を支配していましたが、母親がノルマンディー公の令嬢、つまりイングランド王家ヘンリー1世の娘で、運よくイングランドを相続。当人はフランス南西部のアキテーヌ地方(ボルドー辺りからスペイン国境に至るまで)の相続権を持つ女性公爵と結婚したことから、イングランドとフランスに広大な領土を広げて後世には「アンジュー帝国」と称されました。イングランドのプランタジネット朝の成立は平和裏に行われましたが、ノルマン朝の征服王ウィリアムも含めてそもそも婚姻関係によってイングランドの王位継承権が少なくともあったのです。


2、ジャンヌ・ダルクの採った個別撃破戦術

そして、このプランタジネット朝の時代に起きた百年戦争は、これも王位継承権を巡る争いからでした。今度はイングランド王がフランス王の王位継承権を主張します。

王権というのは世代交代が進むにつれて、直系の皇位継承者が途絶える運命にあります。イングランドは長い歴史において幾度となくその受難に見舞われており、そのために女王の即位も度々あります。現在のイギリス王室は18世紀初めにドイツのハノーバー家から迎えた国王を起源としております。

フランス王国はゲルマン古来のサリカ法典を継承していて、女性の王位継承権を認めていませんでした。それでもユーグ・カペーに始まるカペー王朝(987~1328年)は、直系男子による相続がきちんと進み家系が途絶えることがありませんでした。「カペーの奇跡」と呼ばれます。しかし、そのカペー王朝にも終焉の時が訪れます。「美男王」と呼ばれ、名君の誉れ高いフィリップ4世の死後、3人の息子が早世したためです。

フィリップ4世の甥、ヴァロア伯のフィリップ6世が即位します。しかし、そこに待ったがかかった。フィリップ4世の娘、イザベルがイングランド王室に嫁いでいて、その息子エドワード3世がフランス国王の継承権を主張し、フランスに攻め込んで百年戦争の勃発となります。

1337年から1453年まで休戦を挟みながらも百年以上続いた戦争は、大ざっぱに前半はイングランドが優勢、後半はフランス優勢という構図です。前半の立役者はエドワード3世の息子のエドワード黒太子、後半が他ならぬジャンヌ・ダルクです。英仏百年戦争は長期にわたるゆえ登場人物が多く、フランス王国の親戚筋に当たるブルゴーニュ公がイングランドに加担したりと、日本の応仁の乱と同じように分かりにくい。その経緯については別の機会に詳述しますが、ここではジャンヌ・ダルクの果たしたフランスの歴史における役割だけを記しておきます。

ジャンヌ・ダルクはイングランドに包囲された陥落寸前のオルレアンを解放した少女戦士として知られます。オルレアンはパリの南西130㌔に位置する、フランス王家の牙城です。百年戦争では「アルマニャック派」と呼ばれます。片や、イングランドと通じた「ブルゴーニュ派」がいます。

参照:「オルレアン」

イングランド軍はアルマニャック派の拠点であるオルレアンを包囲します。富農の娘としてジャンヌ・ダルクの生まれたドンレミ村はブルゴーニュ派に囲まれたロレーヌ地方にありましたが、ここだけフランス王室の飛び地でした。彼女はオルレアン包囲の報に接し、意を決して王太子シャルルに会いに行き、戦陣に加わることを許されます。「フランス王のもとに行き、戴冠させよ。まずはオルレアンの囲みを解け」との神のお告げを聞いたとされます。そして、天使の旗を掲げてオルレアン城に入場したジャンヌ・ダルクはわずか10日でオルレアンを解放してしまいます。

ジュール=ウジェーヌ・ルヌヴー作『オルレアン包囲戦におけるジャンヌ・ダルク』


当時のオルレアンの街はロワール川の北側に城壁で囲まれていました。それを取り囲むイングランド軍の配置は、下の図の通りです。攻囲戦に当たっては、籠城側が死に物狂いの抵抗を続けぬよう、逃げ道を作っておくのが常道で、ジャンヌ・ダルクは東側のブルゴーニュ門から易々と入城できたのです。そして、彼女の採った戦法は取り囲んでいるイングランド軍の砦を個別に撃破していくというものでした。つまり、東門を出るとまずサン・ルー砦を襲い、その勢いを駆って渡河するとサン・ジャン・ル・ブラン砦、オーギュスタン砦を落とし、最大の激戦となるトゥーレル砦の戦いも制してしまう。街の北西に陣取っていたイングランド軍はその翌日、その報を聞いて撤退してしまいます。

オルレアン攻防戦における英仏両軍の動き(集英社新書『英仏百年戦争』より)


ジャンヌ・ダルクの軍はなぜ勝てたのか? それは、イングランド軍が兵力を分散させていたから、と言われています。フランス軍は総力を挙げて一つ一つの砦に攻勢をかけたため、全体の兵力では劣っていたとしても、個別の戦いでは数千人対数百人の戦いとなっていたようです。持久戦と決めてかかっているイングランド軍に対して、短期決戦を挑んだフランス軍の覚悟の勝利と言えるでしょう。

オルレアンを解放したジャンヌ・ダルクはランスへと進撃し、ランス大聖堂にてシャルル7世の聖別式を実現させます。フランス王はランスで戴冠式を行わなければ、正式な王とはみなされませんでした。西暦500年前後に最初にフランク王国をまとめ上げたクローヴィス王が、キリスト教に改宗してこの地で洗礼を受けたことに由来します。この地には天使が届けた聖なる油があって、これを全身に塗られた者は神通力を得ると信じられていました。

参照:「ランス大聖堂」

しかし、ジャンヌ・ダルクの命運はここで尽きてしまいます。イングランド軍とのその後の連戦ではいずれも敗色濃厚で、翌年にはパリ近郊でイングランドに加担しているブルゴーニュ派に捕まってしまい、イングランド軍に引き渡された末、異端裁判にかけられてイギリス海峡に近いルーアンの地で火刑に処せられます。しかし、戴冠式まで挙げさせてもらったシャルル7世も含め、当時のフランス人はこの救国の英雄をすぐに忘れ去ってしまったのです。

そのジャンヌ・ダルクを後世に蘇らせたのは、他ならぬナポレオン・ボナパルトです。フランス革命後のフランスは諸外国との戦争を遂行するため、国民を統合する象徴が必要だったのです。ですから、ジャンヌ・ダルクは近代が生んだ英雄であり、創られた英雄でもあったのです。


3、人類史の最高峰としてのフランス革命

そのナポレオンは、フランス革命が生んだ世界の英雄です。フランス革命は人類史を通じて最も偉大な業績と言えるでしょう。フランス革命に感動したドイツの哲学者ヘーゲルは、「世界史とは自由の意識が前進していく過程」(『歴史哲学講義』)と言います。つまり、最初は国王とか一人の人間だけが自由であり、次には貴族とか少数の人間が自由を享受するようになり、最終的に人間誰もが自由の境地に達するようになる、それが世界史の必然であるというのです。その意味で、人類がみな自由で平等であるという理念を導き出したフランス革命における『人権宣言』(1789年)は、現代社会を生きる私たちの礎となっているのです。

市民革命と呼ばれるものには、フランス革命より前にイギリス革命における『権利の章典』(1689年)とアメリカ合衆国の『独立宣言』(1776年)がありました。しかし、『権利の章典』はどちらかと言えば近代の議会政治に道を開いたもので、万人の自由を認めたものではなく、『独立宣言』は当然、アメリカのイギリスからの独立が主眼であり、しかも原住民や黒人の権利は認めていません。ですから、国籍や人種に関係なく万人の権利を認めた普遍性を持つ『人権宣言』は、人類の築き上げた金字塔として称賛されるのです。

しかし、その崇高な理念のまま進まないのが歴史というものです。当のフランスがそうでした。革命の理念からすれば、労働者や小市民など下層階級を擁護する政策が求められます。しかし、そうした民主派はまだ少数でした。当初は、イギリス流に君主制を維持しながら議会政治を進展させようという立憲派が主流でした。さらには国王ルイ16世をギロチンにかけられても、王族を守って旧体制(アンシャン・レジーム=Ancian Régime)に復古させようとの王党派が、虎視眈々と政権奪回を狙っています。

フランス革命の経過については、機会を改めて紹介します。ここでは、上記の三勢力の入り乱れた権力闘争が、ナポレオンを皇帝の座に押し上げたことだけ記しておきます。つまり、革命の理念に忠実な民主派のなかでも労働者と小市民層に支えられたロベスピエール率いるジャコパン派(山岳派)が主導権を握ったものの、同じ民主派でも実業家ブルジョアジー層に基盤を持つジロンド派を追い落とし、王党派や立憲派も含めて次々と処刑していきました。国王ルイ16世や王妃マリー・アントワネットが処刑されたものこの時期です。

しかし、そうした恐怖政治は長続きしません。反ロベスピエール勢力が結集してロベスピエールを逮捕し、処刑してしまいます(テルミドール[熱月]の反動=革命政府はグレゴリウス暦に変えて、各月に美しい真苗をつけた革命暦を制定。1806年に廃止)。その後、中道の立憲派が総裁政府を打ち立てますが、政府は汚職のまみれ、また右から左から攻撃にさらされにっちもさっちもいかなくなりました。国民は強大な権力を求めるようになります。そこで、すでに数々の軍功によって名を挙げていたナポレオンがクーデターを起こし、その総裁政府を打倒したのです(ブリュメール[霧月]18日のクーデター)。


4、アウステルリッツの会戦にみるナポレオンの高等戦術

ここでは、英雄ナポレオンの話をします。ナポレオンが1769年に生まれたコルシカ島は、ちょうどジェノバ(イタリア)からフランスに編入されたばかりでした。ナポレオンはパリの士官学校をあまり良くない成績で卒業したあと砲兵将校となりますが、軍務よりもコルシカ島のフランスからの独立に情熱を燃やす青年時代でした。しかし、故郷コルシカ島がイギリスの保護下に入ると、フランス人として生きることを決めます。その意味で、ナポレオンは転向フランス人と言えます。

ナポレオンは「革命の申し子」と言われます。フランス革命は当時の他のヨーロッパ諸国にとっては、とんでもないものでした。革命が輸出されれば、どこの国でも国王がギロチンにかけられないとも限りません。マリー・アントワネットの母国であるオーストリアは言うまでもなく、イギリス、プロイセン、ロシアといった君主を頂く諸国がその後25年の間に5度も対仏同盟を結成し、戦争を仕掛けてきます。その祖国防衛戦争で頭角を現わしたのがナポレオンです。

ナポレオンは凡庸な成績の士官学校時代にも、数学と歴史に関しては頭抜けていました。その能力は軍人としては砲兵将校として長けた戦術を駆使し、政治家としても歴史認識の鋭さを感じさせます。砲兵科出身の軍人は比較的解明的で、ナポレオンは革命政府のために粉骨砕身します。

ナポレオンはまず、フランス南東部のトゥーロンを占領したイギリス軍を攻囲して、街を解放し名を挙げます。そして、イタリアに進駐したオーストリア軍を駆逐しようとイタリア遠征軍司令官として、数々の戦績を挙げました。その後の「ナポレオン伝説」を不動にしたのは、皇帝になって間もなくのアウステルリッツの会戦(1805年)です。アウステルリッツは現在のチェコ東部にある街です。現在、パリから南西部に向かう主要ターミナルにフランス語読みでオステルリッツ駅がありますが、その名前はこの会戦に由来します。

この会戦は「三帝会戦」とも呼ばれ、それまでの戦闘としては最大のものでした。「三帝」とはフランス皇帝ナポレオンに加え、オーストリア皇帝フランツ1世、ロシア皇帝アレクサンドル1世で、その3皇帝が一堂に会したことでそう呼ばれます。その直前のウルムの会戦では、ナポレオン軍はオーストリアとロシアの連合軍を追ってウィーンに入城、アウステルリッツまで進出します。

ここでナポレオンは巧みな戦術を駆使します。連合軍が体勢を立て直してアウステルリッツに迫ると、ナポレオンは一帯で最も高いプラッツェン高地へ退き、この戦術的に優位な場所も明け渡してしまいます。ナポレオンは対戦に弱腰な姿勢を見せることで、連合軍をおびき寄せる戦術を採ったのです。若いアレクサンドル1世はこれを見て「ナポレオン、恐れるに足らず」と自信を深め、プラッツェン高地に陣取ります。連合軍9万に対し、麓に陣取ったフランス軍7万。

そのうえ、ナポレオンは右翼を薄くして、さらに弱みを見せます。それを目ざとく見つけたアレクサンドル1世はその右翼を突き崩して、そこからフランス軍の側面や背後に回る戦術を立てます。両軍の陣形は下の図の通りです。

アウステリッツの陣形図と両軍の動き(学研M文庫『分析 世界の陸戦史』より)


1805年12月2日の霧の立ち込める寒い朝、戦端が開かれます。連合軍の左翼がフランス軍の右翼を攻め立てます。しかし、これを当初から読んでいたナポレオンは手薄な右翼の背後に別動隊を集結させていたのです。この戦線が膠着状態に陥ると、ナポレオンはプラッツェン高地の本陣にわずかに空いた間隙を突いて、中央突破を図ります。これで連合軍は大混乱に陥り、プラッツェン高地から追い落とされてしまう。膠着状態にあった緒戦の戦いも、最後の騎馬隊による戦いも制し、フランス軍の圧勝となったのです。


シャルル・ヴェルネおよびジャック・フランソワ・ゼーバハ画『アウステルリッツのナポレオン』


ナポレオンの得意戦術は「兵力の集中、中央突破、個別撃破」という言葉に集約され、有名なクラウゼヴィッツの『戦争論』でも高く評価されています。アウステルリッツの会戦は、まさにナポレオン戦術の集大成とも言えます。また、それまでの戦争は陣取り合戦に近い持久戦が中心でしたが、ナポレオンは決戦を挑む電撃戦に切り替えました。でも、何だかジャンヌ・ダルクのオルレアン解放戦争の戦術と似ていますね。

ナポレオン軍の強さの秘訣は、戦術の巧みさだけではありません。一つには、行軍の速さにありました。テントで野営するのでなく、歩兵は毛布を背負って行軍しました。また、食糧は現地調達主義を採りました。つまり、住民から掠奪しろ、ということです。したがって、ナポレオン軍は1日に20㌔を進むことができました。アウステルリッツの会戦で中央突破を図った際には、プラッツェン高地から督戦していたアレクサンドル1世は、ナポレオン軍の姿が遠くに見えたと思ったら、次にはもう目の前に来ていて度肝を抜かれたと言います。

もう一つは、ナポレオン軍は幾らでも兵隊の補充ができたということです。どうしてか? 革命後のフランスは他国に先駆けて徴兵制度を採用していたからです。この時代の諸国の軍隊はまだ傭兵によって賄われていました。これでは兵力の徴集能力に限界がありますし、そもそも国家に対する忠誠心も薄い。傭兵隊長はなるべく損害を出さないよう戦闘を避ける傾向にあり、敗色濃厚になるとすぐに逃げ出してしまう。それに対して、フランス軍は徴兵制のもとで祖国防衛に燃える国民を動員しています。命を投げ出すことも厭いません。だから、犠牲も大きくなります。ナポレオン戦争を通じてフランスの死者は100万人近くに上ったと推定されています。これは、従来は領主同士の限定された戦争だったのが、国民国家のもとで国を挙げての戦争という総力戦に移行する端緒だったと言えます。太平洋戦争における日本の玉砕的な敗戦も、この延長線上にあります。そうした意味で、ナポレオン軍は残酷な一面を持ち合わせています。


5、ロシア遠征からの凄惨な退却戦

しかし、戦争というのは地勢によって左右され、ナポレオン戦術はどこでも通用するものではありませんでした。アウステルリッツも含め、ナポレオン戦術は中・南部ヨーロッパの比較的山の多い限定された地域での戦闘には有効でしたが、北ヨーロッパのような広大な平原といった地域ではそれほど役に立ちませんでした。それを象徴するのがロシア遠征の失敗と、失脚して流されたエルバ島から脱出して再び帝位に就いて連合軍を迎え撃ったワーテルロー会戦でした。

ロシアはいったんフランスと同盟を結んだものの、ナポレオンが宿敵イギリスを経済封鎖しようと大陸諸国に命令を下すと、イギリスへの穀物輸出の道を閉ざされて経済的に窮地に陥り、その禁を破ることになりました。そこで、ナポレオンは同じく同盟国となったオーストリアとプロイセンとともに67万の大軍を率いて、ロシア遠征に乗り出します。アウステルリッツでの敗戦に懲りたアレクサンドル1世は、歴然とした兵数の差もあって図らずも撤退に撤退を重ねます。唯一、モスクワの近郊ボロディノで行われた戦闘を制したナポレオン軍は首都モスクワを占領しますが、その前にロシア軍はモスクワ市民とともにとっとと東方のウラル山脈方面に逃げ出してしまいます。おまけに、市長の命令でモスクワ市街を焼き払ってしまいます。炎はまる4日間、モスクワの空を焦がしました。

ナポレオンはアレクサンドル1世と交渉を試みますが、のらりくらりと回答を引き延ばされているうちに、かの有名な冬将軍がやって来ます。モスクワに細々と残っていた家々に滞留していたフランス軍が撤退を始めたのが1812年10月19日。ロシア軍は一転、退却するナポレオン軍に襲いかかります。ドニエプル川の支流、ベレジナ川まで来たとき、川向こうのミンスクを奪回したロシア軍と、追撃してくるロシア軍との挟み撃ちに遭います。ナポレオンは上流40㌔の浅瀬から自軍を渡らせようと架橋を命じ、自らは下流で陽動作戦を展開し、命からがらパリへ逃げ帰ります。トルストイ原作の映画『戦争と平和』でロシア軍が高台から砲弾を雨あられと浴びせるなか、ベレジナ川を必死で逃げ帰ろうとするナポレオン軍の悲惨な映像は圧巻です。パリへ帰還できたのは、わずか1万人でした。

これによってヨーロッパ諸国でナポレオン支配に対する抵抗運動が広がり、第4回対仏大同盟によるイギリス、プロイセン、ロシア、オーストリアを相手とした「諸国民の戦い」がドイツ・ライプツィヒで繰り広げられます。ここで敗北を喫したナポレオンはパリに戻って防戦するも力尽き、皇帝退位を決意、地中海のエルバ島に流されます。

祖国ではルイ16世の弟(プロヴァンス伯)がルイ18世として即位(ルイ16世の王太子ルイ17世はタンプル塔で獄死)、王政が復活します。しかし、彼は国民に人気がなかった。ナポレオンはエルバ島には近衛兵400人を同行することを許されていたので、国王の不人気を見て取ると、彼らを引き連れて島を脱出します。パリへの行軍途上、ナポレオン軍は歓呼を以て迎えられ、軍隊はどんどん膨らんでいく。ルイ18世はパリを逃げ出し、ナポレオンが皇帝に返り咲きます。これに慌てた各国はまたもや対仏同盟を結成し、両軍相まみえたのがベルギーのなだらかな丘陵の続くワーテルローの戦いでした。


6、ミスばかりが目立ったワーテルローの戦い

この戦いではナポレオンは幾つかのミスを犯し、勝てる試合を落としてしまいます。彼自身の決断が随所で遅れ、その指示も曖昧で、麾下の将軍たちは皇帝の意図せぬ行動に出てしまう。おまけに、ナポレオンの戦術は研究され尽くされていました。戦いがどのような経過を辿ったか、下の図を見ながら追っていきましょう。

ワーテルローの戦い攻防図(中公文庫『世界の歴史10 フランス革命とナポレオン』より)


フランス軍の兵力は20万、対する連合軍は70万の兵力を以て三方からフランスに向けて進撃して来ます。兵力が劣勢の時は強い者をまず叩く、のが常道です。そこで、ナポレオンは名将ウェリントン公爵の率いるイギリス軍と、ブリュッヘル将軍率いるプロイセン軍に焦点を定めます。イギリス軍10万、プロイセン軍12万。これなら勝負になります。しかもこのイギリス軍とプロイセン軍の距離は、80㌔も離れています。ナポレオンは両軍を個別撃破しようとします。

フランス軍に追われたプロイセン軍はリニーに布陣、片やイギリス軍はその西方のカートル・ブラで守備を固めています。フランス軍は右翼がリニーを、左翼がカートル・ブラを攻め立てます。プロイセン軍は持ちこたえられずにワーヴル方面へと退却しましたが、イギリス軍は増援を受けて何とか持ちこたえます。ここで、ナポレオンは最初のミスを犯します。3万5000の兵力を割いて、プロイセン軍の追撃に向かわせます。ナポレオンはその戦術の基本である「兵力の集中」を自ら放棄したことで、これが最終決戦の際に決定的敗因となって現れます。

イギリス軍は北方のワーテルローへと退却、ここで兵隊を密集させる方陣の陣立てを整えます。フランス軍はこれを追撃。その数7万2000に対し、ワーテルローのイギリス軍は6万8000。数的にも優位に立った。そして1815年6月18日、世紀の決戦の火ぶたが切られます。

ナポレオンはまず、得意の陽動作戦に出ます。イギリス軍右翼の前方のウーグモン城館を攻め立てます。つまり、それによってイギリス軍が慌てて後方から増援して来れば、その間隙を突いて得意の中央突破を図ろうとしました。この辺は、アウステルリッツの会戦と似たところがあります。しかし、ナポレオンの戦術を研究し尽くしたウェリントンは動こうとしません。それを見たナポレオンは次に、イギリス軍中央前方に陣取っていたラ・エイ・サント農場を攻め立てます。イギリス軍はここを突破されるとまずいと思い、本陣から張って出て激戦となった。結局、ウーグモン城館が落ちたことで、フランス軍は1万の騎兵を以て敵陣に一気に突入します。イギリス軍は方陣を崩さずに持ちこたえようとしましたが、兵力に優るフランス軍に徐々に陣形を崩されていきます。

総攻撃の時来たり! しかし、なぜかナポレオンは総攻撃の命令を躊躇します。逡巡した挙げ句、総攻撃の命令を下したとき、時すでに遅し。ワーヴルにいたプロイセン軍が、すぐそこまで迫っていたのです。戦況は一変し、フランス軍は潰走するに至ります。では、プロイセン軍を追撃していたフランス軍の分隊は一体、何をしていたのか? ナポレオンの伝令が届かず、プロイセン軍の一部に釘付けにされるという失態を演じたのです。逃げ帰ったナポレオンは投降して大西洋上の孤島、セント・ヘレナ島に流され、エルバ島とは違う最悪の環境のもとで病に罹り、51歳の生涯を閉じたのは周知の通り。


7、宿敵イギリスとの第2次百年戦争に敗れる

フランスの覇権を阻んだのは、イギリスの海軍力が根底にあったからと言えるでしょう。陸軍国としては最強のフランスも、海軍力ではイギリスに遠く及ばなかった。ジャンヌ・ダルク時代の百年戦争で大陸に足場を失ったイギリスは、逆に海洋国家としてアメリカ大陸やアジア、アフリカへと植民地獲得に乗り出していたのです。

ナポレオンもイギリス海軍には、何度も痛い目に遭っています。クーデターを起こして政権を握る前年のエジプト遠征(1798年)は、イギリスの海上権を打破しようとインドとの通商路を阻止しようとの目的でしたが、フランス艦隊はネルソン提督率いるイギリス艦隊に全滅させられ、ナポレオンは多くの部下を置き去りにしてほうほうの体で逃げ帰ります。また、皇帝ナポレオンがアウステルリッツの会戦を前にウィーンへ迫っているとき、地中海に向かっていたフランス艦隊がジブラルタル海峡に近いトラファルガー沖でまたもやネルソン率いるイギリス艦隊に完敗してしまいます。

この敗戦によってナポレオンはイギリス本土上陸作戦を諦め、イギリス商品を大陸から排除して打撃を与える経済封鎖に切り替えました。しかし、産業革命期に入っていたイギリスは大陸諸国の市場に深く浸透しており、フランスは逆に同盟国となった諸国から反発を招くこととなり、封鎖の禁を犯したロシアへの遠征につながったことは先に述べた通りです。

百年戦争でもフランスにとってイギリスは長年の宿敵でしたが、ナポレオン戦争に至るまでの百年間も両国は世界の覇権を求めて激しく争っていました(第2次百年戦争)。いち早く海外に乗り出したポルトガルとスペイン、さらには通商国家オランダとの覇権争いを制したイギリスに対して、次に闘いを挑んだのがフランスでした。17世紀中盤以降に絶対王政の絶頂期を演出したルイ14世は、積極的な侵略戦争を展開。北アメリカや東南アジアに広大な植民地を獲得しました。当然、先行するイギリスと利害がぶつかります。

両国の植民地抗争はスペイン継承戦争やオーストリア継承戦争など王位を巡るヨーロッパ内での戦いの延長として、遠く海外各地で繰り広げられました。そして、プロイセンとオーストリアとの間の七年戦争に端を発した英仏による北アメリカでの激突(1759-60年)、インドでのプラッシーの戦い(1757年)を通じてイギリスの覇権が確立します。フランスはこの敗戦によって、ケベックやモントリオールといった現カナダのセント・ローレンス川沿岸からミシシッピ川以東にかけての北アメリカの全領土を失い、インドからも撤退を余儀なくされます。そして、ナポレオン戦争での敗北――これ以降、イギリスは世界にまたがる大英帝国の繁栄を享受する一方、フランスが覇権を握る機会は二度と訪れませんでした。


8、後継者に恵まれなかった皇帝ナポレオンの苦悩

ナポレオン戦争を概観するに、後年は征服戦争の様相を呈していましたが、革命の理念を他のヨーロッパ諸国に輸出することにもなりました。諸国にフランスと同様のナショナリズムの意識を目覚めさせ、それが皮肉にも民族の結束を高めさせ、ナポレオン本人の没落につながるのです。内政としても、『ナポレオン法典』として知られる、法の前での平等を理念とする民法典を制定するなど、革命の果実を確かなものとしていきました。こ

しかし、ナポレオンは「皇帝」となったことで、フランス革命の共和制の理念からは離れていきます。国王の支配する「王政」と、皇帝の支配する「皇帝」とではどこが違うのか。国によって呼称の違いもありますが、フランスの「皇帝」の場合には国民の支持を基盤とした独裁的な意味合いが強く、現代で言うと大統領によるポピュリズム(大衆迎合主義)に近いかもしれません。この時代にはすでに革命の理念も定着していますから、「国王」となったのでは人民が「昔と同じじゃないか」と思うだろうから「皇帝」という新たな称号を名乗ったと考えられます。

国民のなかから選ばれた人間が指導者になる共和制と違い、帝政も王政と同様に世襲を目指します。ナポレオンもこれに執着しました。しかし、彼は家庭的には恵まれませんでした。ナポレオンは6歳年上で、2人の子供を持つ美貌のジョゼフィーヌと結婚しますが、2人の間に子供はできませんでした。妻に惚れ込んでいたナポレオンは結婚後、妻の不貞に悩まされもします。

ナポレオンを巡る家族関係(中公文庫『世界の歴史10 フランス革命とナポレオン』より)


では、たくさんいる兄弟はどうか。長兄のジョゼフはナポレオンが征服したナポリや、次にはスペインの王位につけたものの、無能で、プライドばかり高い。ドイツのウェストファーレン王に就けた弟のジェロームは軽薄で、戦線の指揮を任せても、すぐに職場放棄して逃げ帰る始末。オランダ王につけた弟のルイは詩人肌で、頼りにならない。唯一、ナポレオンに引けを取らない才能を持つカニーノ大公のリュシアンは、ナポレオンがクーデターを起こした際に兄を窮地から救った功労者だが、その功を誇って勝手な行動ばかりする。おまけに姉妹たちはナポレオンを追い落とす陰謀にまで加わり、ナポレオンを悩ませる――これではナポレオン帝国は風前の灯です。

そうなると、ナポレオンはどうしても自分の子供が欲しい。そこで最愛のジョゼフィーヌと離婚してまで、オーストリアの皇女マリー・ルイーズとの結婚を断行します。彼女はマリー・アントワネットの姪で、容貌は十人並み、移り気で投げやりな性格という。それでも2人の間には皇子が誕生します。皇子は生まれると間もなくナポレオンの後継者に指名(ナポレオン2世)されますが、ナポレオン退位後はウィーンへ移り、結婚もせぬまま結核で21歳の若さでこの世を去ります。母親はとっとと他の男の許へ走り、ナポレオンの流刑先に同行せぬばかりか、息子の許へ顔を見せることもほとんどありませんでした。


9、王政⇒共和政⇒帝政の歴史を繰り返すフランス

しかし、ナポレオンの執念は退位後40年近くを経た1852年、ナポレオン3世の皇帝就任によって結実します。ナポレオン3世はナポレオンの弟、オランダ王ルイの三男で、母親はジョゼフィーヌの娘。なぜ、ナポレオンの甥が帝位に就くことができたのか? そこに至るまでに、フランスの歴史は変転を繰り返します。

フランス革命からナポレオン時代までに、フランスは王政⇒共和政⇒帝政という経緯を辿ります。そして、ナポレオン失脚後、フランスは全く同じ歴史を繰り返します。

つまり、ナポレオンがエルバ島に流されたときに短期間王位に就いたルイ16世の弟、ルイ18世がナポレオンの再度の失脚(セント・ヘレナ島への流刑)を受けて王位に返り咲き、王政復古となります。ここでは王政と言っても革命の原理はある程度受け入れ、議会制も取り入れながら王権を維持するという妥協的なものでした。しかし、1824年にルイ18世の死去を受けて即位した王弟のシャルル10世(アルトワ伯)が即位すると、「ユルトラ」と呼ばれる王党派の貴族を優遇し、立憲主義を擁護する自由派「リベロ―」を弾圧する反動政治に走ります。ここに市民が蜂起し、7月革命が起こります(1830年)。そして、対立する勢力の妥協的な産物として、オルレアン公ルイ・フィリップが王位に就きます(7月王政)。ルイ・フィリップの父は、従兄弟に当たるルイ16世の死刑に賛成したという経緯があります。

7月王政は憲法を遵守する姿勢をとって出発しますが、決して民主的とは言えず、言論・出版の自由を制限するなどやはり反動化していきます。そこで、また市民が立ち上がる(1848年)。この2月革命によってルイ・フィリップは退位してイギリスに亡命。ここに、再び共和政が宣言されます(第2共和政)。憲法に則って実施された大統領選挙で、ナポレオンの甥のルイ・ナポレオン・ボナパルトが圧倒的な勝利を収めたのは予想外の出来事でした。

ルイ・ナポレオンは伯父のナポレオン失脚後、亡命生活を余儀なくされ、武装蜂起に失敗して投獄されるなど数奇な運命を経てきました。フランスが共和制に復帰して、ようやく帰国を許されたばかりでした。王党派やブルジョア自由主義者、市民平等主義者がしのぎを削るなかで、フランス国民はナポレオンの血を受け継ぐ甥に権威的指導者としての栄光を再び夢見たのでしょう。

ルイ・ナポレオンを大統領とする共和政のもとで、なぜか議会制民主主義に基づく共和派が選挙を通じて没落していきます。大統領は国内の政治的対立を巧みに利用してクーデターを敢行、議会を解散してしまい、最終的に帝政復活を国民投票にかけて圧倒的多数で皇帝の座を勝ち取ります。ここにナポレオン3世が誕生します(1852年)。第2共和政はわずか4年しか持ちませんでした。


10、ナポレオン3世時代の光と影

しかし、ナポレオン3世は伯父ほどの才覚は持ち合わせていない。弱い性格で、夢想的でもあり、しかも若い頃の乱行が祟って体も蝕まれていました。時代も悪かった。この頃には社会主義の理念も浸透していて、伯父のナポレオン1世の時代よりも自由と平等を求める精神ははるかに強くなっていました。ナポレオン3世は伯父に倣って共和国の理念を踏襲してはいましたが、特に定見があるわけではありません。勢い反帝政派が勢力を増してきます。内政がままならないと、国民の不満を国外へ向けようと積極的に海外政策に乗り出します。折しも、時代はヨーロッパ諸国がアジアやアフリカへ進出し、植民地化を進める帝国主義時代に突入していました。

ナポレオン3世はイタリア統一戦争への介入やメキシコ遠征などを通じて失政を繰り返し、国際的な孤立を招いてしまいます。ここにつけ込んだのが、フランスに遅れてドイツ統一を目論むプロイセンのビスマルク宰相。手腕としてはナポレオン3世の一枚も二枚も上手を行く。ビスマルクは策を弄してフランスを怒らせ、プロイセンに宣戦布告させる。富国強兵に精を出していたプロイセンと、度重なる外征で疲弊しているフランスとでは兵力に歴然と差がありました。ナポレオン3世は病躯を押して自ら出陣しますが連戦連敗、最後にベルギーに近いセダンで包囲され、10万の将兵とともに降伏してしまいます(1870年)。プロイセン軍はパリに入城し、ベルサイユ宮殿にてヴィルヘルム1世のドイツ皇帝戴冠式を執り行います。フランス国民にはこの上ない屈辱です。

とは言っても、フランスは第二帝政下において産業革命を成し遂げ、経済の急速な発展をみました。1867年にはパリ万博も開催されます。セーヌ県知事のジョルジュ・オスマン男爵がパリの大改造を行ったのも、この時期です。それまでのパリは狭い路地にゴミや汚物が溢れ、悪臭に満ち、病原菌の巣窟という、それはひどいものでした。オスマンは古い家を容赦なくぶっ壊し、直線の大通りを敷き、両側に高さを統一した高層建築を配します。市西部には市民の憩いの場としてブーローニュの森も整備されました。「花の都パリ」の原型は、このとき出来上がりました。

さて、普仏戦争に負けたフランスは、そこから共和政が続き落ち着きをみせます。そこに至るまで100年近い時間を有しました。民主主義の根付くのは、かくも困難な道程なのです。

第三共和政は第二次世界大戦まで70年も続きます。特に、1890年代から第一次世界大戦の始まる1914年までは「ベル・エポック」(belle époque)と呼ばれ、フランス文化が花開いた時代でした。「ベル・エポック」とは、「良き時代」という意味です。しかし、第一次/第二次大戦によって、フランスはドイツにとことん痛めつけられます。フランスにとって、ドイツはイギリスに代わる百年の仇敵となったのです。

第二次大戦でパリを占領されたフランスは一時、親独政権が誕生しますが、大戦終結とともに共和政に戻ります。第四共和政は大戦中にドイツに対するレジスタンスに功のあった共産党など3党による連立政権となります。しかし、各党の足並みは揃わず、共産党は政権から離脱してジリ貧となっていきます。戦後のフランスはアジア、アフリカに有する植民地の独立運動に悩まされますが、アルジェリア戦争が泥沼化するといったんは政界から退いた第二次大戦の英雄、ド・ゴール将軍の再登場を願う声が強まります。これを背景にド・ゴールは大統領選挙に勝利し、現在まで続く第五共和政となります(1958年)。ド・ゴールの目指すのはナショナリズムに拠って立つ強い国家(ゴーリズム)であり、その意味でナポレオン3世のホボナパルティズムに通ずるものがあります。


11、右へ左へ極端に揺れるフランスの歴史

フランス革命後のフランスの歴史をみてきましたが、何とまあ、右から左へ極端に揺れ動く国なのでしょう。革命と反革命――ジャコパン的な底辺からの市民平等理論と、国王であれ、皇帝であれ、独裁者に権力を委ねて強い国家を目指す精神と、全く相容れないイデオロギーを持つ勢力がいつもぶつかっています。しかも、その闘争は常に直接行動を伴います。フランス革命におけるバスティーユ襲撃から、基本は変わっていません。議会政治のもとで徐々に政体を変えてきたイギリスと違い、まるで話し合いなど無駄だと言わんばかりです。このフランスの歴史の特性はどこから出てきているのでしょうか。

フランス人の性格として、物事を割り切り過ぎる、とよく言われます。その分、思想的で、観念的なのです。したがって、フランスには革命前の啓蒙時代から偉大な思想家がきら星のごとくいます。ドイツ人も同様に観念的な国民ですが、ドイツの思想は体系的で、それぞれに繋がりがある。それに対して、フランス人は直感的な鋭さを持っていて、個々人の思想をみると、そんな考え方もあるか、と感銘を受けるが、お互いがバラバラの方向を向いていて思想的な連携がみられない。逆に言えば、独断的で、他人と妥協することを嫌う傾向にあります。

フランス人の政治理念はどこか、現実生活と遊離しています。イギリスの政治家はジェントリー(紳士)層や実業家といった自らの属する階層や職業に根差していますが、フランスの政治家には弁護士やジャーナリストといった知識人層が多いのが現実です。理念先行で、それが現実生活から遊離しているためにすぐに綻びが出てしまうのでしょうか。

また、自らのイデオロギーに固執することから、その信念に従って情熱的に行動します。フランスは普仏戦争に敗れた際に、ドイツ軍のパリ入城に政府は逃げ出したものの、パリ市民は徹底抗戦し、社会主義的な「パリ・コミューン」が宣言されました。政府軍との「血の週間」と呼ばれる1週間の市街戦の末、2万人内外の犠牲者を出してあえなく終結することになります。また、第二次大戦中のナチス・ドイツに対する飽くなきレジスタンスは、他国民からみても感動的なものがあります。現在もフランスはストライキが頻発して、交通機関などが麻痺することが多く、観光客は困り果ててしまいます。しかし、市民は労働者としての彼らの権利を認めています。したがって、2019年に起きたマクロン政権に抗議する「黄色いベスト」運動のデモなど議会以外での行動が活発となるのです。

何かと騒々しいのが、フランスの歴史です。

フランス事始め

政治から文化まで世界のモードを牽引してきたフランスを多面的に論じ、知識・理解を深めてもらうことで、我々の人生や社会を豊かにする一助とする。カテゴリーを「地理・社会」「観光」「料理」「ワイン」「歴史」「生活」「フランス語」と幅広く分類。横浜のフランス語教室に長年通う有志で執筆を手掛ける。徐々に記事を増やしていくとともに、カテゴリーも広げていく。フランス旅行に役立つ情報もふんだんに盛り込む。

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