フランスの中のアフリカ

フランスを初めて訪れると、予想はしていてもアフリカ系住民が多いことに驚く方も多いのではないでしょうか。近年、ヨーロッパにおいて移民は深刻な社会問題となっており、2015年のパリ同時多発テロの記憶も新しく、“移民”という言葉にはネガティブなイメージがつきまといます。ここではネガティブな側面からではなく、フランスにおける移民の生活の様子(アフリカンストリートの紹介、移民の暮らしぶりの例)、現状(人口比率、出身国などのデータ)、なぜ移民が多いのか(フランス語圏の紹介、植民地の歴史、近年の政策など)などを紹介したいと思います。

1. パリのアフリカンストリート

パリにアフリカンストリートが存在することを、多くの日本人は知らないのではないでしょうか。観光客で賑わうモンマルトルの丘を東へ下った辺り。パリの地下鉄4号線に乗って、ターミナル駅の北駅から2つ目のシャトー・ルージュ(Château Rouge)の駅を上がると、「ここはパリか?」と見まごうばかりの光景に出くわします。

真夏のある夕方、駅を上がってすぐ右側の狭いドジャン(Dejean)通りには、黒人系アフリカ人の波で溢れていました。通りの両側に立ち並ぶ八百屋や、肉屋、魚屋にはアフリカの食材が所狭しと並べられています。グロテスクな豚足も、そのまま売られています。パリ郊外に住むアフリカ系住民たちが夕げの支度に集まってきているのでしょう。彼らの陽気な性格と相まって、その喧噪たるやパリの街並みの落ち着きからはほど遠い印象を受けます。ただ、耳に入ってくる言葉だけはフランス語が主で、「ここはやはりパリなのだ」と改めて思う次第です。

そこから少し行ったドュドーヴィル(Doudeauville)通りには、ヘアサロンや雑貨屋、洋服の仕立て屋などが軒を連ねます。ヘアサロンにはアフリカ人特有の髪型をしたモデルの看板が目立ち、仕立て屋にはカラフルな生地が並び、ゆったりとしたアフリカの民族衣装を仕上げてくれます。

パリのアフリカン・ストリートはフランスの植民地となったアフリカ諸国の暗黒時代を改めて彷彿させるとともに、21世紀の現代にパリの街並みに多文化世界が溶け込んでいる新たな時代の息吹も感じさせます。
シャトー・ルージュ(Château Rouge)のドジャン(Dejean)通りで買い物を楽しむ人々 
精肉店には牛の頭も並ぶ

《RESTAURANT ITEGUE TAITU (エチオピア料理)》
アフリカンストリート付近のレストランを筆者が訪れました。映画『アメリ』で主人公が水切り遊びをして心を癒す、マロニエの並木の美しいサン・マルタン運河のほど近く、アルマン・カレル通り(Armand Carrel)通りとラリー・トランダル(Lally Tollendal)通りの交わる場所にエチオピア料理のレストランがありました。

「RESTAURANT ITEGUE TAITU」という、よく分からない名前の店。フランスの植民地はアフリカでは西部に片寄っていたはずですが、アジアとも近いアフリカ東部のエチオピア(イタリアの旧植民地)のレストランもあると知って、パリのアフリカ文化の奥深さを感じる次第。恐る恐る入ってみると、店内は意外に小ぎれいでひと安心。

注文を全然取りに来ないので、カウンターにいるエチオピア人のシェフに尋ねると、ランチの時間帯につきバイキングとのこと。よく分からない料理が並んでいて、適当に盛り付けをしながらシェフに説明をしてもらいました。

円筒形に巻いたパンケーキ状のものが主食で、インジェラと呼ばれるイネ科の穀物のようだ。肉は結構食べるようで、みじん切りにした牛肉を調理したクトゥフォがあって、インジェラをこれに付けて食べると美味しい。タンドリーチキンもなかなかです。牛肉にジャガイモ、ニンジンを混ぜたカレーもあり、アジアからの食文化の影響も感じさせます。全体的にスパイシーな味です。

「飲み物の名物(spécialité=スペシァリテ)は?」と聞くと、カウンターの大きな瓶を指差して勧めてくれました。黄色い液体で、タジ(TEJ)と言うらしい。フランス語でノートに「hydromel」(イドロメル)と書いてくれたから、どうやら蜂蜜酒のことらしい。ずんぐりした瓶に入って差し出されます。やや酸っぱい味ですが、スパイシーな料理とはよく合います。後で調べると、このタジは昔はエチオピア皇帝も愛飲した高級酒で、今は庶民にも行き渡っていると言います。

地方への電車の乗り継ぎを考えながらの短い食事(repas=ルパ)でしたが、あまり食べたことのないアフリカ料理を堪能できました。バイキングで、タジを付けて18€。
エチオピア料理のレストランRESTAURANT ITEGUE TAITU

2. フランスへの同化と祖国の誇りと――アフリカ系移民の暮らしぶり

ここでは、あるアフリカ系移民の暮らしぶりを紹介したいと思います。サハラ以南アフリカ(サブサハラ)の国であるコンゴ民主共和国出身の一族の例です。この一族のうちフランスに移住した大概の者がフランス国籍を取得しています。まずは親族のうち数人が観光ビザで渡仏し、難民申請をしたそうです。その後、職を得て一定年月の納税義務を果たしフランス国籍を取得しました。フランスで子供が産まれた場合は国籍取得は容易になるそうです(詳しくは6項参照)。そして、先に移住した親族を頼って家族・親族が次々と渡仏したということです。

サハラ以南アフリカはキリスト教徒が多く、アフリカ北部イスラム圏からの移民よりも宗教的にフランスに馴染みやすいという点を加味して読んで頂けるとよいかと思います。
《事例1 独身一人暮らしAさんの暮らし》
Aさん(30代、女性)は、パリ近郊の都市再開発地区であるラ・デファンス (La Défense)近くの閑静な住宅街で一人暮らしをしています。アパートの1階の、小さな庭付き1Kの部屋を借りています。部屋はよく整頓され、ベッドの周りを天蓋のようなカーテンで囲い、小さな寝室とリビングに分けています。食事はほとんど自炊で、作るのは祖国の料理がほとんどだそうです。先述のシャトー・ルージュには、よく買い物に行くそうです。冷蔵庫には、旅行で訪れた際に土産物屋で購入した各国のマグネットが並び、海外旅行を楽しむ余裕があることが伺えます。

Aさんの職業は看護師です。高校卒業後、先にフランスに住んでいた腹違いの兄を頼ってフランスに来ました(彼女の父親の時代は祖国で一夫多妻制が残っており、腹違いの兄弟姉妹が15人ほどいるとのことです。母親が違えども仲は良好で、密に連絡を取り合っています)。フランスに来て最初の1年間は、バカロレア(baccalauréat:フランスにおける中等教育修了の国家資格、大学の入学資格になる)を取得するための学校に通い、バカロレアを無事に取得して看護の専門学校に進学しました。3年間の教育期間を終え、Aさんはパリ市内の病院で正看護師(フランスにおいては、准看護師にあたる資格はない)として働いています。フランス国籍も取得しました。

夜勤もあり仕事は大変ですが、生活は充実しています。カナダに住む同郷の恋人とは遠距離恋愛中ですが、ゆくゆくはフランスで一緒に暮らしたいと思っています。現在、Aさんは、仕事をしながら看護師の上の資格である専門看護師になるために学校に通っています。バイタリティー溢れる笑顔が印象的でした。
《事例2 リヨン市の3家族の暮らし》
Bさん(40代、男性)夫婦はリヨン市のリヨン・パールデュー駅(Gare de Lyon-Part-Dieu)から車で20分ほどの住宅街にある集合住宅(賃貸)で暮らしています。移動はもっぱら車だそうです。

Bさんは2年前に再婚しました。コンゴ人の前妻との間に子供が3人いましたが、子供達は前妻と暮らしています。前妻と子供達も祖国には帰らず、フランスで生活しています(皆、フランス国籍を取得しています)。新しい妻もコンゴ人です。フランスで知り合いました。新しい妻との間に子供はまだなく、二人暮らしです。建物4階に位置するBさんのお宅は日当たりが良く暖かで、二人暮らしには少し広い間取りです。

Bさんは電気技術者として雇われて働いていましたが、近年は起業して事業主となっています。妻は専業主婦です。部屋のマガジンラックにはインテリア雑誌が置かれており、インテリアに凝っている様子が伺えます。どこか北欧を思わせる優しく温かなインテリアでまとめています。筆者が訪れた日はパーティーが開かれ、リヨン市内に住む親族が続々と集まってきました。食卓のコンゴ料理を囲んで、会話が弾みます。親族間の絆の強さを感じました。

Bさんの親族であるCさん(30代、女性)は、Bさんの家から車で5分ほどの集合住宅(賃貸)で暮らしています。同じくコンゴ人の夫、2歳、6歳、8歳の3人の子供達と暮らしています。夫は会社員です。Cさん宅もインテリアに非常に凝っており、モダンなリビングとなっています。Cさんの夫は非常に綺麗好きであり、家の中は幼い子供が三人いるとは思えないほど清潔感で溢れています。Cさん夫婦は、カーペットやソファーに落ちた小さなゴミも、すかさず粘着クリーナーで掃除します。上の子供達は元気にはしゃいでいましたが礼儀正しく、ゲームなどで遊んでいました。日本の一般的な家庭と同じ風景がここにはありました。

同じくBさんの親族であるDさん(50代、男性)は、リヨン・パールデュー駅からほど近い好立地のマンションで家族と暮らしています。妻はセネガル人で、看護師をしています。Dさんのお宅でまず目を引くのが、大きなシャンデリアです。リビングは高級感溢れるクラッシックなインテリアで生活感を感じさせません。広くはないものの、筆者がこれまでの人生で訪れたお宅の中で最も「完璧」に洗練されていました。それもそのはず、Dさんの職業は高級家具のインテリアコーディネーターだそうです。奥の部屋から、娘さん、息子さんが「ジョワイユーノエル!(Joyeux Noël!=メリークリスマス!)」と言いながら現れました。筆者が訪れた時は、ちょうどクリスマスの時期でした。上品な服装にパーティーハットをかぶり、家族でクリスマスパーティーを楽しんでいた様子が伺えました。息子さんは大学を卒業し、建築家として働き始めたばかりです。娘さんは母親と同じ看護師を目指しています。穏やかな笑みを浮かべ、物腰柔らかな様子に気品が感じられました。

Dさんの家族は皆フランス国籍を取得していますが、Dさんは祖国コンゴ民主共和国の国籍のままで暮らしています。Dさんはコンゴ人の誇りを失いたくなく、あえてフランス国籍を取得しなかったそうです。

家族間で影響を与えあっているのか、土地柄なのか、リヨン市の3家族のお宅はそれぞれインテリアに凝っていました。移民というと、何となく貧困のイメージがあった筆者には衝撃でした。
《事例3 医師Eさんの暮らし》
 Eさん(60代、男性)は、パリ郊外のヴェルサイユ近くの高級住宅街にある戸建てに住んでいます。Eさんの職業は医師、同じくコンゴ人である妻の職業も医師です。子供は三人おり、長男は同じく医師に、次男は建築家に、長女はインテリアコーディネーターになりました。筆者が訪れた日はクリスマスパーティーが開かれ、広々としたリビングにはパリ近郊の親族が集まっていました。息子さんの友人とみられる白人男性も二人いました。
これまで、リヨン市の3家族を訪問して衝撃を受けていた筆者は、ここに来て彼らの暮らしぶりに日本人として完全に敗北感を感じました。
《事例4 郵便局職員Fさんの暮らし》
Fさん(40代、男性)はパリ中心部から電車とバスを乗り継いで40分ほどの団地で暮らしています。Fさんの職業は、郵便局の事務職員です。妻と小学校低学年の子供2人と暮らしています。Fさんは再婚で、前妻との間にも子供がいますが、前妻と子供達はイギリスで暮らしています。

団地の建物は古く、水回りの設備も全体的に老朽化しています。リビングに置いてある家具は質素で、床にはカーペットを敷いておらず、少し殺風景な感じがします。部屋の隅で、妻と親族の女性が話しながら夕食の下ごしらえをしていました。二人ともアフリカ布のターバンを頭に巻いており、まったりと乾燥した青菜の葉と茎を選り分けている様は、アフリカを感じさせるものでした。少しホッとした筆者でした。
◇   ◇   ◇
以上で、アフリカ系移民の暮らしぶりの紹介を終えたいと思います。この一族はフランス社会で生活基盤を築くことができた成功例かもしれません。しかし、フランスに来たばかりのときにはそれぞれ大変な苦労をしたそうです。持ち前のバイタリティーで努力をして資格を取り、そして家族間の絆の強さで支え合ったからこそ、今の暮らしがあるのだと思います。ただ、婚姻関係にあるのは同郷の者同士がほとんどで、フランス社会に完全に馴染んでいるとは言い難いかもしれません。

3. アフリカ系移民増えるも、高い失業率

フランス国立統計経済研究所(INSEE:L’Institut National de la Statistique et des Études Économique)によると、2015年の移民人口は約620万人(うちフランス国籍を持つ移民が240万人、外国籍の移民が380万人)、フランス全人口の9.3%を占めています。1975年にはヨーロッパ系移民が移民人口の66%を占めていましたが、2015年には35%に減少しています。2015年には、アフリカ大陸出身の移民が移民人口の45%を占めています。直近のデータが見つかりませんでしたが、アフリカ系移民の割合は依然として高いものと思われます。2015年のフランスにおける出身国別の移民人口は、表1の通りです。
表1.フランスにおける出身国別の移民人口(2015年) 出典:INSEE
それでは、移民はどのような職業に就いているのでしょうか。表2は、フランスの職業分野別労働人口に占める移民の割合を示しています。労働者及び工員(いわゆるブルーカラー層)、並びに失業者に移民の割合が高いことがわかります。表2とは別に、フランスに住む外国人の失業率は24%、フランス国籍を持つ人の失業率は9%という2017年のデータもあります。特にEU出身ではない外国人の失業率が高いそうです。このデータだけみれば、アフリカ系移民の生活はさほど楽ではないと思われます。しかし、アフリカ系移民の中にもフランス国籍を取得している人々も多くおり、一概にそうとは言えません。また、表2からはホワイトカラー層である「社員、職員」に占める移民の割合が10.9%となっています(ヨーロッパ系か、アフリカ系かは不明です)。移民がフランス全人口に占める割合が9.3%ですから、“10.9%”というのは高い数値と言ってもいいのではないでしょうか。元々の住民は移民に対して「職が奪われる」と危機感を抱き、移民側は高い失業率で不満を抱き、対立が生まれるという移民問題へつながっていくのでしょう。
表2.フランスの職業的分野別労働人口に占める移民の割合(2017年)出典:INSEE
以上が、移民に関する基本データになります。それでは、なぜフランスにはアフリカ系移民が多いのでしょうか。その理由は、植民地支配の歴史に起因するところが大きいと考えられます。

4. 西アフリカに多いフランス語圏

皆さんは、フランコフォニー(francophonie)という言葉をご存知でしょうか。フランス語で、「フランス語圏」という意味です。毎年3月には世界中でフランコフォニー祭が開催され、フランス語とフランス語圏諸文化を祝う期間となっているそうです。図1が、フランス語圏の国々を色付けした世界地図になります。
図1.フランス語圏の国々
西アフリカの国が多いですね。このため、フランスの移民は西アフリカの国の出身者が多いのです。ではなぜ、これらの国々はフランス語を使用することになったのでしょうか。それは、言うまでもなく植民地支配の歴史に起因します。図2は、第一次世界大戦勃発時(1914年頃)のフランスとベルギー※1の領土を示したものであり、フランス語圏で色付けされた国とおおよそ一致します(カナダについてはこの時期イギリス領でしたが、重商主義の時代にフランスは積極的にこの地域に進出していました)。
※1ベルギーでは南部や首都ブリュッセルで主にフランス語が公用語として使われています。
図2.第一次世界大戦勃発時(1914年頃)のフランスとベルギーの領土

5. 世界に広がったフランス植民地帝国

それでは、フランス植民地の歴史を辿りたいと思います。フランスの植民地帝国としての歴史は大きく二つの時期に分けられます。1530年代から三世紀にわたる重商主義の時代、1830年代からの帝国主義の一世紀です。 

フランスの国家的事業としての大西洋遠征が始まったのは、フランソワ一世(1494~1547年)の時代です。当時、ライバルであるスペインやポルトガルに続かねばならないという政治的な動機や、香辛料や富を求めるという動機がありました。重商主義の時代は、植民地が継続的に拡大された訳ではなく、進出が活発な時期、停滞・衰退する時期が交互に訪れました。この時代にフランスが進出したのは、カナダ、ルイジアナ、カリブ海(アンティル諸島など)、ギアナ(沿岸部)、リオデジャネイロ湾、アルジェリア(沿岸部)、セネガル、マダガスカル、インド(東沿岸部やデカン高原など)、セイシェル諸島、などです。カナダ、ルイジアナにはある程度の白人入植者が定住しましたが、熱帯や赤道地帯ではフランス人の移住は困難を極めました。労働力不足を補うためにアフリカから黒人奴隷が送り込まれました。

17世紀後半から18世紀にかけて、イギリスとの間で植民地を巡る抗争が続きます。1756年からの七年戦争(イギリス、プロイセン、ポルトガルの勝利)では、フランスはカナダやルイジアナ、アンティル諸島(サン=ドマング[現ハイチ]を除く)など多くの植民地を失うことになります。その後、植民地の再建が図られました。アンティル諸島の島々、セネガルの拠点などを取り返し、コルシカ島やタヒチを獲得しました。サン=ドマングでは黒人の奴隷解放運動が始まり、1804年にハイチとして独立を宣言します。ルイジアナは1800年にナポレオンが取り返しますが、その後アメリカ合衆国に売却されます。

1830年代にすでに端緒のみえた帝国主義の時代には、フランスは植民地を急速に拡大させました。しかし、一貫した計画や政策があった訳ではないようです。また、必ずしも順当に事が進んだ訳ではなく、各地で反乱が起きましたし、各地でイギリスと衝突することになりました。それでは、地域別に第一次世界大戦後までの植民地拡大の様相を簡単に紹介します。

≪北アフリカ≫
1830年にフランスはまずアルジェリアの首都アルジェに拠点を構えました。長い闘争の末、1847年にアルジェリア北部の反仏勢力を降伏させ、1859年から1865年にかけて南部へ進出していきました。しかし、アルジェリア最西端の都市ティンドフの征服は1934年にやっと成されました。
チュニジアについては、1878年のベルリン会議でフランスの宗主権が列国に認められて侵攻が始まり、1881年には保護領となりました。

1898年、大陸横貫していたフランス軍と、大陸縦貫していたイギリス軍がナイル河畔のファショダで遭遇し、緊張が高まりました。1904年の英仏協商では、フランスはモロッコでの活動の権利を得ました。しかし、これはドイツの反発を招きます。最終的にはドイツが妥協し、1911年の仏独条約のモロッコ協定で、フランス領赤道アフリカの一部領土と引き換えにドイツは手を引きました。1912年のフェス条約でモロッコの大半がフランスの保護領となりました。

《ブラックアフリカ》
ブラックアフリカでは、現地の指導者の保護を約束する代わりにフランスに有利な条約を結び、交易拠点を次々と築いていきました。1859年には、ギニアからガボンにいたる領土がフランスの植民地とされました。

1880年から1885年にかけては、「植民地帝国の建設者」とされるジェール・フェリー(1832~1893年)によりブラックアフリカに積極的な進出がなされます。アフリカ分割を討議したベルリン会議(1884年11月~1885年2月)では、フランス領コンゴの境界線が確定されました。

コートジボワールは1893年にフランス領となりましたが、全土が平定されるのは1916年となりました。

《インド洋》
インド洋のマダガスカルでは、1821年に東海岸沿いのサント=マリー島が、7月王政(1830年に勃発した7月革命により成立した、ルイ・フィリップを国王とした立憲君主制の王政)の時期にはノシ=ベ島及び北部の複数の沿岸部がフランスの所有となります。1883年、フランスはマダガスカルに侵攻し、北部の港街アンツィラナナを手に入れます。その後も1894年から侵攻を続け、1896年にマダガスカルを併合しました。

また、スエズ運河開通を見越して、インド洋への新しい航路、紅海の出口付近にある現ジブチ共和国のオボックの地を1862年に手に入れました。

《太平洋》
太平洋では、1837年から1842年にかけてタヒチなどの島々で領有を宣言しました。ニュー-=カレドニアは1853年に、タヒチは1880年に併合されました。ポリネシアのガンビール諸島は1871年に保護領化されました。

《インドシナ》
ベトナム南部コーチシナでは、1858年に阮朝との間にコーチシナ戦争が勃発しました。1861年に南部三省を、1867年に西部三省を占領し、コーチシナはフランスの手に落ちました。カンボジアは1863年に保護領となりました。

1882年、フランスは更にベトナム北部のトンキンを占領しました。1883年、1884年のフエ条約によりトンキン、アンナンがフランスの保護領とされると、それまでの宗主国であった清との間に戦争が勃発し、フランスが勝利します。

ラオスについては、宗主国であったタイとの戦争を経て、1893年に併合しました。
◇   ◇   ◇
第一世界大戦(1914~1918年)の後に、フランスの植民地帝国はそれまでの最大面積に達します。大戦後、シリア、カメルーン、トーゴがフランスの委任統治領となりました。しかし、1929年からの経済恐慌、1939~45年の第二次世界大戦を経て、各地で独立への動きが活発になります。植民地帝国は、フランス連合(1946~58年)、共同体(1958~60年)という段階を踏んで、崩壊することになりました。1960年にはアフリカの旧フランス領から14の国が独立しました。1962年にアルジェリアが独立した後にフランスに残ったのは、3つの大陸の土地 ――ギアナ、仏領ソマリア(現ジブチ共和国、1977年独立)、南極大陸のアデリー――そしてカリブ海、大西洋、インド洋、太平洋の小さな島々でした。

6. 労働力確保と社会不安の間を揺れ動く近年の移民政策

第一次世界大戦期、北アフリカ、インドシナ、マダガスカルなどの植民地出身の労働者が20万人以上、フランスで働いていたと言われています。第二次世界大戦後の経済成長期には、スペインやポルトガル、北アフリカからの移民を大量に受け入れていました。しかし、1973年のオイルショック後、フランスは移民労働者の受け入れを停止します。移民は、労働力不足を補うものではなく、社会的問題を引き起こすものとみなされるようになりました。就労目的の移民受け入れを停止したフランスですが、既に定住していた移民による家族の呼び寄せは認めていました。呼び寄せられた家族と、フランスで生まれた二世により移民の数はその後も増加しました。

2006年に「移民統合法」が制定され、移民流入の抑制、移民選別の促進、移民の社会統合促進が図られました。2007年には、移民の選別、社会統合を強化した「移民制御・統合・庇護法」が制定され、現在は高度な専門知識を要する資格をもつ有能な移民の受け入れが行われています。また、両親が外国人の場合でも、フランスで生まれた子供は滞在期間の条件を満たせば申請によりフランス国籍を取得することができます(申請をしなくても、18歳になると自動的にフランス国籍を取得することができます)。子供がフランス国籍を取得している場合、両親が帰化申請をする際に加味されるため、これを利用して国籍を取得する移民も多いそうです。国籍取得には、フランス語が話せること、安定した就労状況、フランスの歴史や文化、社会を理解していることなどの要件がありますが、フランス語圏で生まれた人にとってはハードルが低めではないかと思います。
◇   ◇   ◇
以上で、簡単ですがフランス植民地の歴史と、近年の移民政策の紹介を終わりにします。フランスが人種のるつぼとなっている現況について、歴史を辿ることで理解が深まったのではないでしょうか。
【参考文献】
グザヴィエ・ヤコノ著、平野千果子訳『フランス植民地帝国の歴史』白水社、1998年
厚生労働省編『世界の厚生労働2010』

フランス事始め

政治から文化まで世界のモードを牽引してきたフランスを多面的に論じ、知識・理解を深めてもらうことで、我々の人生や社会を豊かにする一助とする。カテゴリーを「地理・社会」「観光」「料理」「ワイン」「歴史」「生活」「フランス語」と幅広く分類。横浜のフランス語教室に長年通う有志で執筆を手掛ける。徐々に記事を増やしていくとともに、カテゴリーも広げていく。フランス旅行に役立つ情報もふんだんに盛り込む。

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