スタンダール『恋愛論』からみる恋愛の極意

スタンダール『恋愛論』からみる恋愛の極意

                              根本 正一

1、女性にモテなかった大作家の名作

私が初めてフランス文学に触れたのは、高校時代に手にしたスタンダールの『恋愛論』でした。今も当時買った新潮文庫(大岡昇平訳)が残っています。多分、女性に対する関心の強くなった高校生として、「恋愛とは何か」を真剣に考えたかったのでしょう。大学時代には『赤と黒』を読んで主人公のジュリアン・ソレルに憧れたもので、それほどスタンダールは私の精神生活に深く刻み込まれました。今回、新たにこの『恋愛論』を読み返してみて、その後数十年を経た自らの恋愛経験と重ね合わせて、ここにこの大著を解釈してみたいと思います。

スタンダール(本名アンリ・ベール)の生きた時代は、フランス革命からナポレオン帝政、王政復古、七月革命とフランスの政治が目まぐるしく変転した18世紀後半から19世紀前半です。スタンダール自身はナポレオンの軍隊に所属していたこともあり、共和制を支持する自由主義者でした。ただ文弱に流れる「愛の遍歴」を至上の目的としていたものの、残っている肖像画を見ても女性にモテる風貌とは言い難い。顔は四角く、首は太く、短く、しかもでっぷり太っていて、どう見ても醜男の部類です。しかし、だからこそ多くの女性に言い寄ってはフラれる過程で、その内面を磨いて恋愛の本質を捉えようとしたのでしょうか。

『恋愛論』の初版本が刊行されたのは1822年。ナポレオン没落後のその直前にスタンダールは、イタリア・ミラノに滞在して気儘な生活を送っていました。その時、ある将軍の妻となっていたメチルドという女性に恋焦がれた挙げ句、最後までまともに相手にされなかった大失恋の経験が『恋愛論』の筆を執るきっかけと言われます。スタンダール自身は結婚を馬鹿にしていて、生涯独身を貫きますが、人妻にでも手を出すところが恋愛至上主義者の真骨頂でもあります。相手のメチルドの夫はかなり暴力的だったようで、彼女の不幸な身の上に共感したところに彼自身の言う「結晶作用」があったのでしょう。

現代において「恋愛論」と称する数々の作家の作品には、このスタンダールの命名した「結晶作用」がよく語られます。今となっては「恋愛論」の古典として称されるスタンダールの『恋愛論』も、刊行当時は不評をかこち、「結晶作用」についても理解されませんでした。その文章はエピソードに彩られている分だけ、論理的でない部分が多いのは確かですが、人間の恋愛感情を深く洞察したものとして今では評価が定着しています。

2、『恋愛論』の構成について

この新潮文庫版の『恋愛論』は、「序文」「第一巻」「第二巻」「断章」「付録」「補遺」「追加」から成ります。文庫本と言えど「訳注」「あとがき」を含めて500㌻以上に及ぶ大著で、改めて読み返してみて次第にうんざりしてきたものです。「あとがき」によれば、初版本に収められていたのは「付録」までのようで、ここまで読めば十分だなと感じたのも事実です。「補遺」は従弟で遺言執行人のコロンが、スタンダールの死後に未発表の断片を収録したといいます。「追加」も関連する断片を収めたもので、前後の関係がよく分かりません。

初版本のうちでも、スタンダールの言いたいことは「第一巻」にすべて書かれていると思います。彼の編み出した「結晶作用」という言葉については、ここに十分説明されています。「序文」はなぜか他人の言葉をそのまま借りてきたものだし、「付録」は現代人には意味がない。「第二巻」は国によって異なる恋愛の性格が中心となっていて面白いのだが、どうもステレオタイプ的に過ぎるような気がします。「断章」は細切れな文章だから、言わんとするところが分からないものも多いが、「なるほど」と思わせるものも多いので、目についた箇所だけ読み飛ばせばいいでしょう。全体として「結晶作用」を納得させるために屋上屋を重ねるように具体的事例を持ち出しているものの、「○〇大佐」とか「××夫人」とか当時のパリでは有名な御仁でも、フランスの歴史をある程度知っていても「誰だよ、それ?」と思わざるを得ず、なかなかピンときません。

3、小枝がダイヤモンドに変わる「結晶作用」

まずは、スタンダールの中心概念である「結晶作用」からいきましょう。彼の言う「ザルツブルクの小枝」は、現代において恋愛を論ずる際にしばしば引用されます。(以下の抜粋の章はすべて第一巻から)

「ザルツブルクの塩坑では、冬、葉を落した木の枝を廃坑の奥深く投げこむ。二、三カ月して取りだして見ると、それは輝かしい結晶でおおわれている」(第二章)

つまり、人が人に恋するのには、塩坑に投げ出された小枝のように、取るに足らない人間であっても時間が経つにつれて想いがその人を無数のダイヤモンドに覆われたようなきらびやかな存在として相手の前に立ち現れるようになる、ということです。スタンダールは、「愛する対象が新しい美点を持っていることを発見する精神の作用」(第二章)としています。

しかし、恋愛感情がどうしてそのような経緯を辿って発展するかというと、なかなか答えが見出せません。この『恋愛論』が不評で、初版段階では全く売れず、「結晶作用」という概念自体、彼の友人たちからも理解されなかったことは、彼自身も書いています。思うに、スタンダールの時代は啓蒙主義全盛であり、理性的な人間にとってそのような精神作用は認められなかったのではないでしょうか。

4、情熱的に恋愛するイタリア人、フランス人は虚栄心ばかり?

スタンダールは、人間の素直な感情に重きを置きます。『恋愛論』を上梓した頃のフランスは王政復古の時代で、フランス革命を経た自由の精神は当然残っていたにしても、フランスの社交界にはびこる虚栄心と肉体的欲望からくる恋愛を唾棄しています。彼にとっては、恋愛について何も学ばなくとも、情熱的に異性を愛するイタリア人が理想です。現代の日本女性はイタリアへ旅行すると、必ずと言っていいくらいイタリア人男性に声を掛けられると聞きますが、それはそれで人間の素直な感情の発露なのだな、と思わないでもありません。

ちなみに、スタンダールはゲーテの『若きウェルテルの悩み』のように観念的で、想像に生きるドイツ人にも敬意を表しています。それは、異性への思いを募らせていく「結晶作用」に繋がるものだろうから。逆に、理性を重視する国民には厳しい。イギリス人はジェントルマン的な自尊心と虚栄心とから、理性が勝ち過ぎ、気安さがなく、気取っていて本当の恋などできない。まして、生活をすべて合理的に処理しようとするアメリカ人に、恋愛を楽しむ幸福などない、と断じています。(こうした国民による恋愛の違いは第二巻に述べられています)

国民の気質を単純に色分けするのは分かりやすくて、我々自身も「だから、××人は……」と簡単に片づけがちだが、実際に外国人と付き合っていると国民差よりも個体差の方が大きいとすぐに感じられます。イタリア人だからといって皆が皆、浮かれた人間ではないし、ドイツ人でも全く世俗的で、観念的でない人間もいます。男女の性差もその程度のものであろう。確かに、社会が形づくってきた慣習が、その構成員たる個々人の性格に与える影響は否定できない部分はありますが……。それでも、人によって恋愛に対する心構えが違うであろうことは、スタンダールの気質分けは非常に参考になると思います。

5、「情熱恋愛」はすべてに勝るか

スタンダールは「結晶作用」を説明する前に、しょっぱななに恋愛を4種類に分けています。すなわち、①情熱恋愛、②趣味恋愛、③肉体的恋愛、④虚栄恋愛――の4つです。しかし、スタンダールは「情熱恋愛」しか相手にしておらず、他の恋愛パターンを馬鹿にしています。そして、「情熱恋愛」を最も体現している国民がイタリア人、それに対してフランス人の恋愛は虚飾に満ちていると断じています。情熱恋愛は「プラトニック・ラヴ」につながるが、一般に恋愛に情熱がきちんと潜んでいたとしても、他の恋愛パターンがその中に全くないと言い切れるでしょうか。

まず「肉体的恋愛」についてですが、相手の体に触れたいという感情は、恋愛感情に発展する可能性のある男女間(時には同性間もあるが)にしか起こりえません。「恋のいちばん大きな幸福は、愛する女の手を初めて握ることである」(第三十二章)。幼い子供とその親との間には濃厚なスキンシップがありますが、それ以外に他人の体に触れる機会といったら握手を交わす時ぐらいでしょうか。

恋愛によって肉体関係が生じれば、文字通り裸の自分をさらけ出すのだから、自分の弱みまですべて受け止めてもらうまさに一心同体の関係になる可能性の高いことは否めません。そうした関係は恋人以外には望めず、いかに同性の親友であっても「弱みは見せたくない」と背伸びして付き合うことが多いと感じられます。恋愛が肉体的なものだけならそれも寂しいものですが、肉体的な関係こそ他の人間関係と区別されるものとして、それは恋愛の十分条件ではなくとも必要条件ではあるでしょう。スタンダールとて結構、肉体的な欲望は強かったようで、プラトニックな情熱恋愛しか認めないのは、彼自身が女性にモテずにその思いをあまり遂げられなかったからでしょう。

次に「趣味恋愛」については、どうも小説とか、現代で言えばドラマとか、歌謡曲とかによって触発された「恋愛をしない人間はダメ」といった脅迫心から恋愛を求めるパターンを指しているらしい。そうした人間は常に具体的な自らの恋愛の場面を心に描いているから、実際の場面でもスマートにやり遂げるのかもしれません。思春期に「恋に恋する心」も、相手がどうこうより、「誰か相手がいないと馬鹿にされる」といった子供ながら社会的な圧迫を受けていることも多いと思われます。

最後の「虚栄恋愛」は「趣味恋愛」に近いとも言えますが、恋愛の相手が社会的地位のあるような皆が羨むような存在を手にした場合に、羨望の眼差しで見られる快感を前提としたものです。

「女は恋人を選ぶにあたって、彼女自身が男を見る気持よりも、他の女が彼を見る態度を重んじる」(第十章)

今の時代には女性もそれなりの社会的地位を得ているから、男性からする虚栄心も女性に近くなっていることでしょう。自尊心が「趣味恋愛」を、虚栄心が「虚栄恋愛」を支配していると言えるでしょう。自尊心を傷つけられるくらいなら恋を捨てる人間もいる、とスタンダールは言う。そして一方で、「自尊心の傷みは情熱恋愛にはありえない」(第三十八章)と断じる。スタンダールは、「情熱恋愛」は「完全な自己放棄と限りない信頼」(第六章)にあるとしています。

では、その「情熱恋愛」はどう生まれ、どのような過程を辿るのでしょうか。スタンダールは、この点について哲学的、数学的に解明したとします。彼によれは、まず相手の何かに「感嘆」がある、そして相手の「美点を検討」し、相手にも愛されていると感じたとき、一緒にいて見たり、触れたりしたくなる感情が高まる。そこで、「第一の結晶作用」が生まれる。しかし、幸福がいったんは安定しても、そのうち「彼(女)は本当に自分を愛しているのだろうか」と些細な疑惑に悩まされ、そこから「第二の結晶作用」が生まれて甘い至福の喜びに到達するというのです(第二章)。「いつも鎮めねばならない小さな疑いがあるということ、これがたえざる渇きとなって、幸福な恋愛に生命を与える」(第三十三章)として、「恋を確実に持続させるのは第二の結晶作用である。この間は始終愛されるか死ぬかという問題と顔をつき合せている」(第三章)と、スタンダールはここに重きを置いています。

では、その「情熱恋愛」のきっかけとなる「感嘆」は、相手のどういった部分に対してなのでしょうか。これは、何でもあり、ということでしょう。ただ、「驚き」があるのです。「恋が生れるまでは、美は看板として必要である」(第十章)し、だから見ず知らずの美しい女優とて恋愛の対象となり得ます。あとは、「想像力」が小枝でさえダイヤモンドに輝かせてくれます。「想像力に富む魂は、優しく疑い深い」(第二十一章)。

「驚きは、その異常な出来事について長い間もの思いにふけらせ、すでに結晶作用に必要な頭脳の働きの半分を使いはたしている」(第二十一章) 

6、しかし「情熱恋愛」は報われない?

その「結晶作用」をもう少し詳しくみてみましょう。

「いちど結晶作用が始まると、人は愛する者に見いだす新しい美の一つ一つにうっとりとする」(第十一章)

そうなると、一度惚れられたら相手が自分を勝手に美化してくれるのだから、こんなに自尊心をくすぐられることはない。そこで、モテる人間は図に乗りがちで、スタンダールに言わせると「愛することを知らない人間は不幸」ということなのでしょう。しかし、どうも惚れる方も相手に自分の思いを投影することで、自らの欲望を満足させているに過ぎないとも言えます。

「ある男の恋人の結晶、つまりその『美』とは、彼が恋人に対してつぎつぎといだいたあらゆる欲望の『満足のすべて』の集まりにほかならない」(第十一章)

つまり、「現実のほうがすぐ欲望に従ってみずからを形づくる」(第十二章)のであり、だから「恋愛をもろもろの情熱の中で最も強いものとする」(同)のです。人間は社会生活のなかで、特に現代においては他人と人格の一部分でしか付き合っていないから、自分のすべてを受け入れてくれる恋人は全人格を賭した存在であることに特別な意味があると言えるでしょう。

しかし、「情熱恋愛」もそう簡単に上手くはいかない。人間にはどうしても「羞恥心」がつきまとう。「羞恥心は恋に想像力という助けをかす、これは恋に生命を吹きこむ」(第二十六章)一方で、「過度の羞恥心とその厳しさは、優しい臆病な魂の愛する勇気をくじく」(同)辛さがあります。「会わないでいれば、想像力は女と楽しい対話を交わし、最も優しい最も感動的な興奮に浸る」(第二十四章)のに、「非常な努力をしているので上面は冷たく見える。恋はあまりの激しさばかりに身を隠したのだ」(同)とは悲しい限りです。

さらに、恋人同士でも恋愛のバイオリズムは違うのが普通で、この温度差が二人の仲を裂く原因になることはままあります。

「愛し合う二人の人間の恋はほとんどけっして同じではない。情熱恋愛には消長があって、かわるがわる二人のうち一方がより強く愛しているものである。単なるただのたわむれか虚栄恋愛が、情熱恋愛でむくいられることもよくある。そして夢中になるのはどっちかというと女のほうである。恋人の一方がいだいている恋がどんな種類のものであろうとも、嫉妬が起きると、すぐ他方が情熱恋愛の条件を充たすことを要求するものだ。この場合、男の虚栄心は優しい心の要求を装う」(第三十六章)

この文章で重要なのは、片方が情熱恋愛であるのに対して、もう片方が趣味/虚栄恋愛である場合です。趣味恋愛に徹していれば、相手を嫉妬させることは自尊心を満たす喜びであろうし、相手が自分に夢中になっていれば虚栄心をも満たすことができます。生物学的には、男性の方が一度に何人もの女性を愛することも可能だろうから、一途な女性が裏切られるのが世間一般の姿でしょうか。

7、理性的な人間が恋愛を壊す

そこには、自分に正直に生きようとする人間と、恋愛をも功利的に考える人間とのすれ違いがあるようです。スタンダールは「優しい魂と散文的な魂の相違」(第二十四章)と表現しています。

「散文的な魂は、正確に彼がふだん持っていないだけの熱を得る。一方哀れや優しい魂は過度の感情のため気が変になり、そのうえそれを隠そうとする」(第二十四章)

「自分の情熱にあまり密接な関係のあることとなると、優しく気高い魂は愛する者の前で雄弁になることはできない。やりそこなう恐れが強すぎるからだ。これに反し俗な魂は成功の機会を正確に計算し、失敗の苦痛を予想するのにむだな時間を使ったりしない。自己の俗物たることを誇りとし、十分才知はありながら、ごく簡単なことをいうだけの気安さがなく、最も確実な成功すら取りにがしてしまう優しい魂を嘲笑する」(同)

これは後の「断章」(一〇)においてですが、その優しい魂と散文的な魂の対照をセルバンテスの小説『ドン・キホーテ』の主人と従者の関係にみています。どこまでも夢想的で挫折を繰り返す主人ドン・キホーテと、どこまでも現実的で抜け目のない従者サンチョ・パンサと。

スタンダールの生きた時代は18世紀以来の啓蒙主義が主流で、人間はその客観に基づく理性によって人生を合理的な、理知的な理想形態に近づけることができるという考えを多くの知識人が共有していました。だから、人間の感覚を重視するスタンダール流の浪漫主義を理解する当代人は少なく、この『恋愛論』がその時代には見向きもされなかったのも頷けます。

ただ、21世紀を迎えた今でも、客観的理性を重視する社会観の方が主流を成しています。それは経済的生活に主眼を置く現代社会で、他人との差別化を図ることが求められているアメリカ流の価値観が大きく左右していることでしょう。恋愛においても然り。異性にうつつを抜かすのは恥ずかしいし、恋愛で恥をかくのは嫌だし、それをスマートにやりこなせば皆から羨望の眼差しで見られる――そうした自分中心の功利的精神が世を席巻している以上、スタンダールの言う「情熱恋愛」はごく少数の人間のものかもしれません。スタンダールは恋をする資質を持った女性が、かくも散文的な男に惚れてしまい、悲劇をみる姿を嘆いています(でも、そうしたいい女が自分に惚れないのはおかしい、と言っているような)。

8、自分の気持ちに正直たれ!

では、スタンダールは恋愛の処方箋をどこに求めているのか。

「恋する技術とは結局その時々の陶酔の程度に応じて、自分の気持を正確にいうことに尽きるようだ。つまり自分の魂に聞くことである。これがあまりたやすくできると思ってはならない。ほんとうに恋している男は、恋人からうれしい言葉をかけられると、口をきく力がなくなる」(第三十二章)

「完全な自然さがあれば、二人の幸福はやがて融け合う。共感、その他我々の天性のもろもろの法則に照らして、これは要するにこの世における最大の幸福である」(同)

「情熱に囚われた人間にとって、嵐の中で唯一の頼りになるものとしては、どんなことがあっても真実を変更せず、正しく自分の心を読むという決意を固く守るほかはない」(同)

どれだけ自分の気持ちに素直になれるか、その情熱がお互いの心にあれば恋愛の至福を味わうことができるということでしょう。その結晶作用を手助けするのは「孤独と閑暇」であり、独りで音楽でも聴きながら夢見る時間が必要とも言っています。恋をする資質を持っていながら、それを羞恥心とか、あるいは社会的通念とかで上手く生かせない人々を嘆いています。まさに、「命短し 恋せよ乙女」かもしれません。

「恋するように作られた魂を天から授かりながら恋をしないとは、自分からも他人からも一つの大きな幸福を奪うことである」(第二十六章)

ただ、スタンダールの「情熱恋愛」の理論に従うと、どこまでも自由恋愛の信奉者ですから、不倫であろうと何であろうと厭いません。『恋愛論』を書くきっかけとなった彼自身の大恋愛、イタリア・ミラノのメチルドも人妻です。結婚制度に否定的で、結婚のための見合いも「合法的売淫」と片付けています。彼は当時としては女性の人権を重んずる女性解放論者と言われていますが、この点は女性が好き勝手に恋愛できると都合がいいという男性側の身勝手も作用しているかもしれません。

女性の感覚的にはきめ細かな判断の確かさに感心しながらも、「女は理性に従うという習慣に導かれない」(第七章)とか、「女は男の一つの美点に気を取られ、一つの細部にひかれて、それを激しく感じるばかりで、他のものは眼に入らない」(第二十五章)とか、現代の女性が読んだら怒り出すのではないかという言葉も散見されます。理性の多寡も性差より個体差の方が大きいだろうし、近視眼的なものの見方も女性に限ったことではないでしょう。まあ、ここは2世紀も前の人間の感情として、目をつぶりましょう。

9、「断章」からの抜粋

「断章」では、これまで述べてきたことを、短い文章で書き連ねています。テーマごとに記して、その一端を紹介しましょう。(カッコ内の数字は「断章」の中のノンブル)

■情熱恋愛への凱歌:

「恋が生れた証拠の一つは、人間の他のあらゆる情熱、欲望が与える快楽や苦痛も、たちまち彼を動かさなくなることである。」(四)

「愛する女の手を初めて握るとはなんという瞬間であろう。これに匹敵しうる唯一の幸福は、大臣や国王が軽蔑するふりをしている、あの権力の大きな幸福くらいなものである。」(六九)

「私は人間の魂が感じないよりは感じることを好む知覚を快感と呼ぶ。」(一四〇)

■恋愛における孤独の重要性について:

「人はあらゆるものを孤独の中で獲ることができる、性格を除いては。」(一)

「自分の心をたのしみ、真に恋するためには、孤独が必要である。しかし成功するためには、社交界に出ていかねばならない。」(二〇)

「大画家、大詩人の魂にあって恋が貴重なのは、それが芸術の領域と快楽を百倍するからである。」(一二五)

■当代の計算高い恋愛についての批判:

「上流社会にあるような恋は、争いの恋であり、遊戯の恋である。」(七)

「趣味恋愛ほど平板なものはない。すべては生活上の散文的な取引におけると同様、打算である。」(一一)

「すぐれた男はみんな生活の第一歩において、滑稽な熱狂家か不運な男か、どっちかです。陽気でものやわらかな男、安易な幸福に満足する男には、あなたの心に必要な情熱で愛することはできません。」(三七)

「誰からも好かれる人は、深くは好かれない。」(四三)

「感じる人は日に日にまれになり、洗練された才人が殖えていく」(五一)

「利に聡い女にもごまかすことのできない恋のしるしがある。和解には真の喜びがあるだろうか。それともその結果得られる利益を考えているのか。」(八一)

「二人の美男美女はたいへん気どり屋だったので、それぞれ自分のこと、自分が相手に与える効果しか考えなかった。」(九七)

「理性! 理性! 人はいつも哀れな恋する男にこう叫ぶ。」(一二七)

「活溌、軽佻、つねに名誉心からいきり立つ、つまり二六時中自分の生活を他人がどう思っているかを気にしていること、これが一八〇六年にヨーロッパを覚醒させた人種の三大特徴である」(一三五、ある司書官の手紙からの抜粋)

■優しい人間に恋愛の勇気を持たせるエール:

「男が深く恋していればそれだけ、愛する女を怒らせる危険を冒してその手を握るためには、強く自分をはげまさなければならないものである。」(三二)

「魂がつまらないことに恥辱を感じ、それに打勝つのに専心するなら、快楽を感じることはできない。」(八〇)

「欲するとは、ある困難に身をさらす勇気を持つことである。身をさらすとは運をためすことであり、賭である。」(一二二)

■恋愛の経験による差について:

「堅固な性格を持つとは、人生の誤算と不幸について、長い確かな経験を持つことである。そのとき人はあくまでも望むか、全然望まないか、どっちかである。」(六)

「社交界へ出た青年の最初の恋は、普通野心の恋である。……若者は女の美点によって彼自身が高められるのがわかるような女を愛しようとする。崇高に絶望して、悲しく単純と無邪気を好むようになるのは、齢傾いてからである。この二つの時期の間に、自己のことより考えない真の恋がある。」(六七)

■恋愛における男女差について:

「肉体的恋愛に対する性向(肉体的快楽に対しても)は、男女同一ではない。男と違ってほとんどすべての女には、少なくとも一種類の恋愛をする素質がある。十五歳で初めてこっそり小説を読んでからは、女はひそかに情熱恋愛の到来を待っている。彼女は大情熱に自分の価値の証拠を見る。この期待は二十歳になって、人生の最初の軽率から目ざめたとき倍加する。ところが男は三十になるかならずで、恋愛をありえないか滑稽なものときめてしまう。」(一四一)

結論としては、「情熱恋愛」がいかに純粋で、崇高なものだとしても、当代は恋愛をも理性的に上手にやり遂げようとする近代的精神がそれを妨げている。年齢による経験の差や、男女の感覚の差も、それを難しくしている。だから例えば、情緒豊かなある女性がある男性に最初のイメージでボーっとなり、その思いを「結晶作用」で育んだとしても、相手が恋愛を自分のステータス向上のためを重んじる男性だとすると、その思いが通じて一緒になったとしても、いずれ幻滅をきたすことだろう。ただ、素直な「情熱恋愛」の気持ちに従うことは、人間の情感を高める道でもある――スタンダールはそう言っているようです。

10.ウェルテルとドン・ジュアンの差

『恋愛論』は第二巻の中で、ゲーテの小説『若きウェルテルの悩み』の主人公ウェルテルと、モーツァルトの歌劇『ドン・ジョバンニ』で有名なモリエールの戯曲からきたドン・ジュアン(=ドン・ファン)を比較して論じています(第五十九章)。

婚約者のいるシャルロッテに恋して、最後まで彼女に受け入れられず自殺したウェルテルに対し、その貴族的な手練手管で女性を口説いては、それが成就すると簡単に恋人を捨て次の女性にターゲットを向けるドン・ジュアン。ドン・ジュアンが征服の難しい高貴な女性を知略の限りを尽くして手にするのに対して、自分の心の中だけで悶々と思い悩むウェルテル。一人の男からすると、ドン・ジュアン的な華麗なる恋愛遍歴は羨ましい限りですが、スタンダールはウェルテルこそ真の恋愛の体現者として賛美しています。

ドン・ジュアンは理想の女性像を求めて恋愛遍歴を繰り返すのですが、完全な女性などどこにもいようはずがなく、お互いに恨みだけを残して別れることとなります。片や、「ウェルテル風の恋は、魂をあらゆる芸術に向けて開く」と、恋愛で芽生えた人間に対する慈しみを自然の美など普遍的な愛へと昇華させていく心情をスタンダールは評価しています。

恋愛がどこまでも個人的なものであれ、それが人間の生活にとって大きな意味を持つのはここに尽きるかもしれません。スタンダールの言うように、恋愛は相手との関係よりも一人一人の心の中にあり、どこまでも孤独なものです。だからこそ相手と一体となったときの孤独からの解放が至上のものであるのですが、その恋が例え破れたとしても他の人間を含め世上のあらゆるものをいとおしむ心を育むことができれば、それはそれで素晴らしいことなのだと気づかなければなりません。

11、普遍的な愛につながる恋愛の本質

『恋愛論』を通読して感じるのは、スタンダールは恋愛感情の起きる生理学については言葉を尽くして論じてはいても、その後の恋の行方については何も語ってはいません。恋は成就するよりも、それを長く育むことの方がはるかに難しいことは、現代人ならみな薄々感じています。

恋愛と愛情は分けて考えねばなりません。恋愛は一時の情熱があれば足りるものですが、愛情は長い時間をかけて育むものだからです。そして、恋愛は誰でもできますが、それを愛情に昇華させられるのは一部の人間に限られるようです。それをまた人類全体に対する愛にもつなげられる精神こそ、恋愛のなかから学ぶべきなのでしょう。

しかしそうした理想とは裏腹に、誰でも恋愛のできるようになった時代に、愛情を育むどころか、ドン・ジュアンのように相手への憎しみだけを残して別れてしまうカップルの何と多いことか。日本でも離婚は当たり前となり、そこまでいかなくとも家庭内別居を続ける夫婦はゴロゴロいます。歌謡曲だって、愛の歓びを謳ったものより、それを失う嘆き節の方が聴衆の琴線に触れるようです。一時期話題となった「愛は4年で終わる」という生物学的仮説も、なるほど説得力を持っています。

それなら、スタンダールのように結婚制度を否定して、自由な恋愛を楽しみ続ける道もあるでしょう。スタンダールの生きた時代と違って(日本も含めて)、身分の差を超えた若い男女の許されぬ恋愛を阻むものはなくなりましたが、現代においても浮気・不倫という社会的背徳が残っています。恋愛が自由になった分だけ、同性との競争も激しくなります。惚れてしまったけれども人妻であったり、逆に寝取られることも普通になっています。誰をも不幸にすることなく、男女が愛を育めればそれに越したことはありませんが、そう理想通りにいかないのもこの世です。

12、人間に対する深い洞察こそ恋愛成功への道

では、現代人が恋愛を楽しみ、それを愛情に育て上げるには、どうすればいいのか。ここには恋愛が簡単な時代の逆の意味での恋愛の難しさと、次にその恋愛が成就したとしてそれをどう安定的な愛情に昇華させるか、さらにそれが上手くいかなかったときにどう対処するか、3つの課題があります。

まず、現代はスタンダールの言う「情熱恋愛」は成立し難くなっています。男女の垣根がほとんど無くなっているのですから、相手に対する幻想もなかなか起きない。すると性的な肉体的欲望か、あるいは「他人に遅れをとりたくない」といった趣味/虚栄恋愛から無理して恋愛をするようになります。

そこには、相手を慈しむ自己犠牲の精神などあろうはずがありませんから、考えるのは自己の欲求をどれだけ満足させられるかにしかなくなります。そんな男女であれば、相手に要求するばかりで、それになかなか応えない相手への不満だけ募らせ、破局を迎えるのは必定でしょう。「情熱恋愛」には資質も必要です。スタンダールの言う「散文的な魂」は合理主義的過ぎる分だけ、その資質は低いのでしょう。例えフラれようが、一途に愛する心は、何にもまして崇高なものかもしれません。

しかし、世の中は残酷なもので、その純粋な人間がそれに相応しい相手を選ばずに、後々憂き目を味わうことの多いのが現実です。女性の身になって考えれば、スタンダールも言うように優しい心を持った男性は好きになった女性の前で委縮してしまうし、全てスマートにやり遂げる「散文的な魂」を持った男性は幾らでも甘い言葉を弄して女性を陥落させる能力を持っているから、彼女がどちらに靡くかは火を見るよりも明らかです。そこに、人生の悲しさがあります。

お互いに「散文的な魂」の持ち主で、お互いに不満を抱えてバトルを繰り返し、自然に別れるのは勝手にすればいい。問題なのは折角、愛情に恵まれた人間なのに、相手の選択を誤って情熱的な恋愛を安定的な愛情に仕立て上げられなかった人間です。概して、こうしたカップルはお互いに浮気・不倫はするでしょう。芸能界などでは常に不倫報道が世間を賑わせていますが、相手がそうした「散文的な魂」なのか、あるいは自らもそうなのか、そもそも見てくれはいい双方だけに精神的な未熟さからくるものなのでしょう。

相手が自分にふさわしい人間なのか、なかなか見極めは難しいものです。相手にいったん惚れてしまうとその気持ちが自然増殖するのであれば、どんな人間に惚れるのかがその人間にとって最大の問題となります。スタンダールの言にあるように、ある程度の経験によって人間を見る眼も養われる部分があるでしょう。若い時分にはなるべく多くの恋をし、挫折も繰り返しながら、人間を見る眼が備わったところで自分と最適の人間に出会えれば、その愛を生涯育むことができるでしょう。経験が知識と噛み合えば必ず人間としての成長があるはずで、その知識とは社会生活に役立つ知識ではなく、人間に対する深い洞察を必要とする哲学・倫理的なものであるはずです。

悲しいのは、最初の選択を見誤って、バトルを繰り返した挙げ句に相手に対する憎しみだけを背負って別れてしまうことでしょう。ここはスタンダールの言う、趣味恋愛や虚栄恋愛だけに走る「散文的な魂」には気をつけなければならないところです。すべてに合理的な「散文的な魂」は概して現代社会には受け入れられがちで、見た目はスマートで、如才ないから、そうした人間に騙されやすいのは無理のないことかもしれません。彼らと例え結婚したとしても愛が育まれることはなく、そもそもそうした人間は結婚には向いていないのかもしれません。もし相手が自分にふさわしくない人間と悟った場合には、さっさとその恋愛を解消する勇気も必要でしょう。ライバルが現れた場合には、正々堂々と勝負し、人間性で勝負するしかありません。

では、恋愛から一歩進んで、長い時間をかけて愛情を育むとはどういうことなのでしょうか? 人間、幾つになったとて、所詮はお互い不完全な存在です。肉体を含めて全身全霊を傾けて相手と対峙することで、相手を一個の人間として敬い、そしてお互いを精神的に高め合う、そんなカップルこそ真の幸福を得ることができるでしょう。最終的に自分を高めてくれるのは、生涯の伴侶しかないと考えます。その日を夢見て常に自分の精神を磨いていく――そうした人間はいつか報われるはずです。

「情熱恋愛」の優れたところは、相手にすべてを委ねる、自己犠牲の精神なのかもしれません。お互いに自分が相手に何をしてあげられかを常に考えれば、自然に愛情は育まれていくことでしょう。それは、不完全な存在である相手を許すことから始まるのではないか。しかし、功利的な精神のもとでは、自分が相手から何を得られるかしか頭にありませんから、そこはお互い不完全な人間、相手に対する不満だけが募っていきます。

筆者の周囲を見ても、上手くいっていないカップルの方が多いと感じますし、それは少し観察していればすぐに分かります。そうしたカップルは少なくともどちらかが功利的な人間で、喧嘩が絶えず、相手への不満だけを募らせていると窺い知れます。上手くいっているカップルは教養や社会的地位、経済的条件に関係なく、情感に優れ、常にお互いへの労わりから出発しています。生活が豊かでなくとも、いつも寄り添って生きている高齢の夫婦などを見ると、そこには幾つもの苦難を乗り越えて、他人が入り込めない深い信頼関係を長い年月をかけて醸成してきたのだなと思い、こちらも幸せな気分になります。

恋愛に技術は必要ですが、その技術とは人間性に対する飽くなき追求である、ことをスタンダールは教えています。

フランス事始め

政治から文化まで世界のモードを牽引してきたフランスを多面的に論じ、知識・理解を深めてもらうことで、我々の人生や社会を豊かにする一助とする。カテゴリーを「地理・社会」「観光」「料理」「ワイン」「歴史」「生活」「フランス語」と幅広く分類。横浜のフランス語教室に長年通う有志で執筆を手掛ける。徐々に記事を増やしていくとともに、カテゴリーも広げていく。フランス旅行に役立つ情報もふんだんに盛り込む。

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