フォンテーヌブロー宮殿

     フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)


1、城砦から宮殿へ――パリとその近郊の宮殿

フランスには数多くの宮殿(palais)があります。「宮殿」とは王室や貴族が政務を行うとともに、私的な生活を送る居館です。もともとは軍事施設としての城砦(château)であったところが多く、それはいつでも戦闘に移れる武骨で、実用的な造りでした。しかし、王権が強大化して、他から攻撃される恐れが薄れるにつれて、時の支配者は自らの権力を誇示するべくただの城砦を華麗な宮殿へと変貌させていきました。そこでは国家的な儀式や外国使節の謁見も行われますから、その建築や装飾はそれは贅を尽くしたものとなります。

現在のパリには、かつてはフランス王室の宮殿であった観光名所が幾つもあります。セーヌ川中洲のシテ島にあるコンシェルジュリー(Conciergerie)はフランス王室揺籃の地であり、シテ(Cité)宮殿と呼ばれていました。フランス革命時には反革命派を収容する監獄として使われ、「悲劇の王妃」マリー・アントワネット(Marie Antoinette)が最後に幽閉されていたことでも有名です。現在のルーヴル美術館はもともとは要塞に過ぎませんでしたが、その後シテ宮殿に変わるルーヴル(Louvre)宮殿として姿を変え、長く政務の中心だったところです。ルーヴル美術館の西に位置するチュイルリー公園は野外美術館のような庭園で現在は市民の憩いの場となっていますが、ここにも昔はチュイルリー(Tuileries)宮殿があり、フランス革命勃発当初にはルイ16世とマリー・アントワネットの家族はここに押し込められました。


参照:コンシェルジュリー/サント・シャペル

フランスの宮殿と言えば、何と言ってもパリ南西郊外にあるヴェルサイユ(Versailles)宮殿です。ここはもともと王室の狩猟場としての小さな館に過ぎませんでしたが、絶対権力を誇った太陽王ルイ(Louis)14世が50年の歳月をかけて豪華絢爛な宮殿を造成させました。そして、パリ郊外にはやはり忘れてはならないもう一つの宮殿があります。フォンテーヌブロー(Fontainebleau)宮殿です。

ヴェルサイユ宮殿はルイ14世からルイ16世までのブルボン朝におけるたかだか1世紀半の歴史を持つものですが、フォンテーヌブロー宮殿はカペー朝、ヴァロワ朝、ブルボン朝とフランス歴代王朝を貫いて重要な位置を占めており、挙げ句は国王に代わる皇帝となったナポレオン(1世)とその甥ナポレオン3世もこの宮殿を愛し、利用したという長い歴史を有します。フランス革命によって同宮殿はいったん荒廃しますが、その後皇帝となったナポレオン(Napoléon)が「これぞ王の宮殿」と感動して再整備し、現在にその姿を伝えます。フォンテーヌブロー宮殿は12世紀から19世紀まで800年の長きに渡ってフランスの国王や皇帝に愛され続けたのです。


参照:ジャンヌ・ダルクとナポレオンからフランスの歴史をみる

フォンテーヌブロー宮殿はパリの南東約60㌔。パリ・リヨン駅からパリ近郊路線トランジリアン(Transilian)で約40分、フォンテーヌブロー駅からバスで15分ほどで辿り着く。駅前は閑散としていますが、宮殿の周辺はレストランなども立ち並んでいて賑やかな街並みです。背後に王室の狩猟場となっていた「フォンテーヌブローの森」が広がっています。

     フォンテーヌブローの街並み。奥が宮殿入口


2、フランス王フランソワ1世と神聖ローマ皇帝カール5世

フォンテーヌブロー宮殿の案内に入る前に、同宮殿に最も縁のある君主を紹介しましょう。その名は、ルネサンス期のフランソワ(Frannçois)1世(在位1515-47年)です。

この時代、ヨーロッパはフランス王室とともにオーストリア・ハプスブルク家が二大強国でした。ハプスブルク家は何とも幸運な家系です。当時のドイツはまだ諸侯が乱立した状態で、古代のローマ帝国の精神を引き継いで神聖ローマ帝国を打ち立てたものの、その皇帝の座は有力諸侯(選帝侯)の選挙によって各諸侯の間を彷徨っていました。ハプスブルク家は当初はスイスの片田舎の貧乏伯爵に過ぎなかった(ハプスブルク家は本領地をオーストリアに移してからはスイスの支配を代官に任せており、シラーの戯曲『ウィリアム・テル』に出てくる悪代官ゲスラーはその代官の一人)のが、何の因果か15世半ばから神聖ローマ帝国がナポレオンによって解体される1806年まで皇帝の座を世襲で独占します。政治力や軍事力が傑出していたわけでもない。13世紀後半に初めて皇帝の座が転がり込んできたのも、選帝侯同士の権力闘争によって収拾がつかなくなった時に人畜無害の小物皇帝として担ぎ出された結果だったのです。

それが、ハプスブルク家「中興の祖」と呼ばれるマクシミリアン1世の手によって、その版図はヨーロッパ中に広がりました。それは、彼が仕掛けた婚姻政策の末、婚姻相手先の領国の相続予定者が次々と亡くなってたまたま相続権が転がり込んでくるというケースが相次いだことによります。その結果、マクシミリアン1世の孫である神聖ローマ皇帝カール5世は本国オーストリアだけでなく、スペイン、ネーデルラント(現在のオランダとベルギー)、ボヘミア(現在のチェコ西部)を含むハンガリーをも領土に組み込むこととなりました。そうなると、フランスはドイツとスペインの両ハプスブルク家に挟撃される形となります。フランス王フランシス1世はこの神聖ローマ皇帝カール5世を宿敵として、幾度となく戦争を繰り広げます。

もう少しハプスブルク帝国の発展を整理しておくと、まずマクシミリアン1世は妻がフランスの公領となっていたブルゴーニュ公国の公女マリーで、その北に位置する毛織物産業などで栄えていたネーデルラントも同公国に属していました。ブルゴーニュ公国はフランスからの独立を目論んでハプスブルク家と組んだのですが、フランスとの戦いの末に君主が後継者ともども戦死してしまいます。結果、ブルゴーニュはフランス王家のもととなりますが、ネーデルラントはマリーが相続することで決着がつき、マリーの死後はマクシミリアン1世のものとなります。

マクシミリアン1世とマリーは一男一女を設け、息子フィリップ美公はスペイン王女ファナと、娘マルガレーテはスペイン皇太子ファンと結婚するという二重結婚を断行します。一方の家系が断絶すればもう片方の家系がその領土をまるまる相続できるシステムで、これがハプスブルク家の方に幸いします。皇太子ファンをはじめスペイン王室は血統が絶え、スペイン王位はハプスブルク家のものとなります。フィリップ美公とファナの間には息子が二人生まれ、長男のカールが神聖ローマ皇帝位とスペイン王を兼ねることとなります。神聖ローマ皇帝としてはカール5世、スペイン王としてはカルロス1世です。スペインは当時、長く国内を席巻したイスラム勢力を駆逐(レコンキスタ)し、カスティーリャ女王イザベルとアラゴン王フェルナンドの結婚によって国家統一がなされ(1497年)、すでに中南米にも進出して広大な植民地を有するほどに大きくなっていました。

カールの弟フェルディナントはオーストリア大公となりますが、彼とその妹がまたハンガリー王国との間に二重結婚政策を採り、スペインと全く同じ経緯を辿ります。その結果、ハンガリー王国と同君連合を組んでいたボヘミアともどもハプスブルク家の掌中に帰します。フェルディナントはのち、カール5世の跡を継いで神聖ローマ皇帝フェルディナント1世となり、スペイン王室はカールの子孫が継承することとなります。

長々とハプスブルク家の隆盛の経緯を述べましたが、フランス王室はこの頃より2世紀にも渡ってハプスブルク家との戦いに明け暮れます。スペイン王国はその後、再び系統が断絶し、スペイン継承戦争(1701-14年)を通じてフランス王室(ブルボン朝)が引き継ぐこととなり、ハプスブルク帝国の権勢は次第に減じていきます。ハプスブルク皇女マリー・アントワネットがフランス王ルイ16世の許に嫁いだ(1770年)のは、イギリスと組んだ新興勢力プロイセンに対抗するための歴史的な転回だったのです。

さてフランソワ1世の話に戻ります。2世紀半続いたフランス王室のヴァロワ朝(1328-1589年)ですが、その間に直系男子が絶えて王座が傍系に移るという断絶が二度ありました。アンボワーズ城に長く居住したシャルル8世が男子なくして死に傍系のオルレアン家から即位したルイ12世、イタリアに有していた領土をすべて失ったそのルイ12世も同様に男子なくアングレーム家からフランソワ1世が即位することとなったのです。フランソワ1世が本流に辿り着くには4代も遡らなければならず、幸運この上ない。

 

3、イタリア・ルネサンスに魅せられたフランソワ1世

フランソワ1世と宿敵カール5世との主戦場はイタリアでした。イタリアは古代ローマ帝国の滅亡後の中世を通じて、小国が分立する状態が続いており、ヨーロッパの強国による草刈り場となっていました。しかし、地中海貿易を通じて先進的なイスラム文化を吸収し、ベネチアやミラノなど都市国家においてルネサンス文化が花開いていました。フランソワ1世は即位直後にミラノへ遠征した際に華麗なイタリア・ルネサンス文化に感動し、イタリアから多数の芸術家を招いてフランス王室の狩猟用離宮を次々と絢爛な宮殿へと変えていきました。

ロワール渓谷に数多くある古城は今やフランス有数の観光資源となっていますが、フランソワ1世は帰国後さっそくその最大のシャンボール城の改修に着手しています。イタリアから招いた芸術家は建築家、造園家、画家、彫刻家など多岐に渡り、最も有名なのがレオナルド・ダ・ヴィンチです。天才レオナルドもイタリアでは不遇をかこっていて、フランソワ1世が彼を引き取ってロワールのアンボワーズ城に住まわせました。アンボワーズ城の礼拝堂には、レオナルドの墓があります。名画『モナ・リザ』がルーヴル美術館に所蔵されているのには、そうした経緯があります。フランソワ1世が「フランス・ルネサンスの父」と呼ばれる由縁です。イタリア・ルネサンスはその後衰微していきますが、イタリアから招いた画家たちは「フォンテーヌブロー派」と呼ばれフランスの文化的発展の礎となりました。

アンボワーズ城の礼拝堂にあるレオナルド・ダ・ヴィンチの墓


フランソワ1世はとにかく派手好きで、陽気で話し上手、身長は2㍍を超えていて女性にもモテる。宮殿の造営にしこたま散財したため、先王たちが税制改革などを通じて蓄えた王室財政を蕩尽してしまいます。イタリア戦争では大敗を喫して自ら捕虜となってしまい、マドリッドで送られてしまいます。身柄の解放に多額の賠償金を支払わされ、外交上の譲歩も迫られましたが、マドリッド捕囚中にちゃっかりカール5世の姉とデキてしまい、王妃に先立たれていたフランソワ1世は彼女を妻に迎えることとなります。


4、漆喰装飾の見事な「フランソワ1世の回廊」

そのフランソワ1世がフランス・ルネサンスの精魂を傾けたのがフォンテーヌブロー宮殿でした。フランソワ1世が南側の「黄金の門」とともに基本的な建築設計を行い、その後ナポレオン3世に至るまで、歴代君主が次々と建物を継ぎ足していきました。フランソワ1世の精神は息子のアンリ(Henri)2世に引き継がれ、ブルボン朝の創始者となったアンリ4世や、ヴェルサイユ宮殿を造成したルイ14世もフォンテーヌブローを愛し、宮殿の改造・増築を重ねていきます。しかし、その基調はルネサンス様式です。それでは、フォンテーヌブロー宮殿の内部を案内しましょう。

宮殿は複雑な構造となっていて、入口は正面から見て建物右側となっています。ここは「ナポレオン1世博物館」となっていて、彼にまつわる肖像画や美術品、家具調度品などが展示されています。ナポレオンの家族の肖像画、政略結婚でハプスブルク家から迎えた二度目の妻、マリ―・ルイーズ(Marie Louise)の胸像と二人の間に生まれたナポレオン2世の使った揺りかご、ナポレオンの食卓に並べられた豪華な食器、野戦用のテントや携帯物等々。

博物館を抜けると「教皇のアパルトマン」となっています。ここは賓客のアパルトマンで、イギリス王やロシア皇帝などを迎えているだけに装飾には贅を凝らしています。その名前は、ナポレオンが皇帝戴冠式に先立ってローマ教皇ピウス7世をここに招き入れ(1804年)、その後も同教皇を1年半に渡って勾留した(1812-4年)ことに由来します。フランソワ1世時代からあり、未亡人となった歴代の王妃がここに滞在しています。ハプスブルク家からやって来たルイ13世の王妃アンヌ・ドートリッシュ(Anne d’Autriche)の寝室はそのまま残っています。この「教皇のアパルトマン」はシーズンによって閉館されていることもあり、ここを訪れた時には残念ながらちょうど閉館中でした。

さて、そこから「グラン・アパルトマン」へと移ります。ここには絢爛な回廊、礼拝堂、王や王妃の私的空間としてのアパルトマンなどが広がっています。

まずは宮殿のハイライトと言うべき「フランソワ1世の回廊」。フランソワ1世はフィレンツェの芸術家ロッソ・フィオレンティーノの指揮のもと、全長60㍍に及ぶこの回廊を豪華な彫刻や絵画で埋め尽くしました。壁に漆喰を塗って、その上から水で溶かした顔料で描くフレスコ画のレリーフがふんだんにあって目を引きます。

     「フランソワ1世の回廊」

         漆喰のレリーフが美しい


もう一つ、回廊としては全長80㍍の「ディアーヌの回廊」があります。ディアーヌ(ラテン語ではディアーナ、英語だとダイアナになる)はローマ神話に出てくる狩猟と月の女神で、丸天井にはその神話が描かれています。もともとはアンリ4世が王妃の遊歩回廊として建造したが、ナポレオン(1世)と甥のナポレオン3世がここを図書館として整備しました。所蔵する蔵書は1万6000点に及びます。床にある大きな地球儀は、ナポレオンがチュイルリー宮の執務室に置いていたものをその後移設したものです。

      「ディアーヌの回廊」


「三位一体修道会礼拝堂」はフランソワ1世が着工し、ルイ13世時代に竣工しました。アーチ型の天井には、聖書の物語を描いた装飾がなされています。

      「三位一体修道会礼拝堂」


アパルトマンには「フランソワ1世の居間」「ルイ13世の間」など個別の居室のほか、「玉座の間又は旧王の寝室」「皇帝の寝室」「王妃と皇后の寝室」など歴代の国王・王妃・皇帝が引き継いでいった寝室も数多い。「玉座の間又は旧王の寝室」はブルボン朝のアンリ4世からルイ16世まで国王の寝室でしたが、ナポレオンが「玉座の間」に改修しました。金の装飾が至る所に施され、ナポレオンはここで各国の使節と謁見しました。「皇帝の間」は皇帝ナポレオンが造った寝室です。「王妃と皇后の寝室」はアンリ4世の王妃マリー・ド・メディシス(Marie de Médicis)からナポレオン3世の皇后ウージェニー(Eugénie)までが利用し、マリー・アントワネットの寝台もあります。天井には天使や人魚が描かれ、壁には布地刺繍の装飾が施され、アラベスク模様の扉もあります。

            「ルイ13世の間」

      「皇帝の間」

         「王妃と皇后の寝室」


他にも「舞踏会の広間」「会議の間」など、大勢の貴族が集う部屋もあります。

庭に出てみましょう。庭園は建物によって3つに分かれます。「楕円の中庭」と、「ディアーヌの庭園」「鯉の池と英国風庭園」。主にアンリ2世の王妃カトリーヌ・ド・メディシス(Catherine de Médicis)が母国イタリアのルネサンス様式を持ち込んで造らせました。「ディアーヌの庭園」には狩猟の女神ディアーヌが狩りをしている姿をかたどったブロンズ像が泉水とともにあります。英国風庭園はナポレオンの時代に造成されたもので、鯉の池の向こうに広がる14㌶に及ぶ花壇はヨーロッパ最大と言います。

 「ディアーヌの庭園」にある『狩りをするディアーヌの像』

            「鯉の池」


建物の正面が出口となっていて、その正面中庭はナポレオンが四輪馬車も通れるよう整備しましたが、逆に彼が戦争に敗れてエルバ島に流されるとき兵士たちと涙の別れを行った場所として有名です。

    ナポレオンが兵士たちに別れを告げた正面中庭


フォンテーヌブロー宮殿には追加料金を伴う施設も併設されており、「ナポレオン3世の劇場」などはガイド付き見学が可能です。     


フランス事始め

政治から文化まで世界のモードを牽引してきたフランスを多面的に論じ、知識・理解を深めてもらうことで、我々の人生や社会を豊かにする一助とする。カテゴリーを「地理・社会」「観光」「料理」「ワイン」「歴史」「生活」「フランス語」と幅広く分類。横浜のフランス語教室に長年通う有志で執筆を手掛ける。徐々に記事を増やしていくとともに、カテゴリーも広げていく。フランス旅行に役立つ情報もふんだんに盛り込む。

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