ブリュッセル(Bruxelles)

フランスの隣国ベルギー(Belgique)は、公用語の一つがフランス語ということもあり、フランスとの関係がとても深い国です。ベルギーは「ヨーロッパの十字路」と呼ばれ、その首都ブリュッセル(Bruxelles)は、EU(ヨーロッパ連合)やNATO(北大西洋条約機構)の本部が置かれ、国際政治的にも目の離せない存在です。


日本人にとってベルギーのイメージと言えば、「チョコレートとビールの国」。ベルギーの街を歩いていると、レストランなどでビールを片手にゆったり食事を楽しんでいる姿が印象的です。しかし、ベルギーはその地理的特徴から大国に翻弄された悲しい歴史を有し、現在も国家の多様性から「EUの縮図」とも言える難題も多く抱えています。国際都市ブリュッセルにそれは集約されています。パリからは高速国際列車タリスでわずか1時間20分。ブリュッセルの街を案内しながら、現代ヨーロッパの神髄を感じ取りましょう。


1、ベルギーの言語・文化対立の問題 常に孕む分裂の危機

ベルギーを語るのに、延々と続けられている言語・文化の対立問題に触れなければなりません。ベルギーは大きくオランダ語(フラマン語・フレミッシュ語)圏のフランドル(英語ではフランダース)地方と、フランス語圏のワロン地方とに分かれます。


ワロン地方は石炭の産出地でかつては鉄鋼業などが栄えましたが、今や斜陽産業となって経済的に落ち込んでいます。主要都市にリエージュやナミュール。一方のフランドル地方は、ドーヴァー海峡を挟んでイギリスに近く、中世から織物産業が盛んで、第二次世界大戦後は臨海工業地帯が形成されて経済成長を遂げました。主要都市にブリュージュやアントワープなど。


ブリュッセルはフランドル地方に位置しますが、ここはフランス語が優勢です。首都として発展するなかで、歴代のエリート層が国際語としてオランダ語よりフランス語を重宝したためです。今や国際都市として発展したブリュッセルの市民は4人に1人が外国出身者です。首都周辺地域はフランス語が席巻していますが、フランドル地方のオランダ系住民は面白くありません。両勢力のせめぎ合いの中でお互いの立場を尊重しようと、ベルギーは1993年に双方の自治権を大幅に認めた連邦制に移行します。フランドル地方とワロン地方、そしてブリュッセル首都圏の3つです。そしてブリュッセルは、フランス語とオランダ語の両方を公用語としています。


フランドル地方はいつも「政府が我々の言うことを聞かなければ独立するぞ」と息巻いています。今やフランドル地方の方が裕福になったことで、自分たちの納めた税金が貧しいワロン地方に流れるのが我慢なりません。


だったら、「北側はオランダ語なのだからオランダと一緒になれば?」「南側はフランス語なのだからフランスと一緒になれば?」とも素人目には思うのですが、それぞれお互いに相容れないとのことです。歴史的にも様々な国、例えばブルゴーニュ公国、スペイン、オランダの支配を受けていて、複雑なんです。隣り合わせで近い存在だからこそ難しいのでしょうか。さらにベルギーの南部にはドイツ語話者の住む地域があって、そこも自治権拡大に向かっているそうです。一段とややこしいですね。


2.ベルギー小史 大国の狭間に立つ小国の悲運

そもそも古代においてこの地にはケルト系のベルギー人の先祖が住んでいましたが、「ゲルマン民族の大移動」に伴いゲルマン民族が北部に進出、それがそのまま現在の両民族・言語の境界線となっているのです。ベルギーが国家として独立できたのは実に1830年になってからです。それまでこの地はどうなっていたのでしょうか?


古代ローマ帝国に代わって、現在のフランス、ドイツ、イタリアにまたがる大帝国を築き上げたシャルルマーニュ(カール)大帝は、現在のベルギーの出身と言われます。その後、三国の勢力争いのもと、ベルギーの帰属は行ったり来たりしますが、中世にはフランス王室の流れを汲むブルゴーニュ公国のもと毛織物業で栄えます。しかしそれもつかの間、オーストリアとスペインに広大な領土を持つに至ったハプスブルク家がブルゴーニュ公国を併合すると、その過酷な支配に悩まされます。ハプスブルク家のドイツ・神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)は母親がブルゴーニュ公国の皇女だった関係で、ベルギーで生まれ育っています。


この時代にはベルギーはオランダと一体で「ネーデルラント」(低地地方)と呼ばれていました。そのうちに宗教改革が起こり、プロテスタントのカルヴァン主義の浸透したオランダが独立を果たします。しかし、フランドル地方のオランダ語を話すゲルマン人はカトリックを遵奉していて、同じカトリック王国のハプスブルク家の支配を受け続けることになりました。その後、フランス革命の影響を受けてベルギーにも共和制への憧れが広がり、フランスの属国となりますが、ナポレオンが没落するとウィーン体制はベルギーをオランダに併合してしまいます。エルバ島から脱出したナポレオンが連合軍に最後の決戦を挑んだのがブリュッセルに近いワーテルローでしたが、ナポレオンが親仏感情の強いベルギーを決戦の地に選んだのも分かる気がします。


しかし、民族自決の精神に立つフランス革命の影響はその後もヨーロッパ全体に広がり、ベルギーにおいても独立の機運が盛り上がります。連合国側もこれを受け入れざるを得なくなりますが、「他から王様を迎え入れろ」とベルギーに要求します。他のヨーロッパ諸国からすれば、王のいない共和制が広がれば自分の国でも王が締め出されるとの恐怖感があったようです。


そこで駆り出されたのが、ドイツのザクセン・コーブルク・ゴータ家から迎え入れたレオポルド1世です。これにはイギリスの後押しがあったようです。彼はイギリス国王ジョージ4世の娘と結婚したものの、妻に先立たれ、そのままイギリスに居座っていたと言います。ちなみに、ヴィクトリア女王はレオポルド1世の姉の子で、ヴィクトリア女王の夫アルバートはレオポルド1世の弟の子に当たります(つまり、ヴィクトリア女王は従弟と結婚していることになります)。


そうしてみるとベルギー王室の歴史は他国と比べて新しいものと分かりますが、歴代の国王は、常に分裂の危機を孕む国内を纏めようと心を砕いてきました。その意味で、国王はまさに「統合の象徴」として機能してきました。しかし、レオポルド1世の後を継いだ息子のレオポルド2世の治世は19世紀後半の帝国主義の時代で、大国に挟まれたベルギーとしては海外に植民地を獲得することで国力を充実させようと図りました。その結果、現在のコンゴ民主共和国(旧ザイール共和国、1997年に国名変更)を私物化した挙げ句暴虐の限りを尽くし、他国から非難の嵐を浴びました。それが第二次大戦後の独立に際してコンゴ動乱を引き起こし、今もって内戦の続く素地をつくったのは、ベルギー王国の負の遺産となっています。


それでもヨーロッパの大国に挟まれたベルギーは中立外交をモットーとしていましたが、第一次/第二次世界大戦ではドイツに真っ先に侵略され、国土を蹂躙された苦い経験を味わいます。そこで第二次大戦後はいち早く隣国のオランダ、ルクセンブルクとの間に関税同盟を結び、それが現在のEUにまで拡大する素地となりました。実際にベルギーは欧州連合・欧州委員会の設立の中心メンバーで、欧州の機関を多く擁しています。イギリス、ドイツ、フランスと言った大国に囲まれながらも、中心地としての利点を発揮して、政治的にも経済的にも、自国の活きる道を見出している頼もしい小国です。


シャルルマーニュ大帝、カール5世、そしてナポレオンと古今の英雄の駆け抜けたベルギーの地、そうした基礎知識をもとに、ブリュッセルの街を案内しましょう。


3.「最も美しい広場」グラン・プラス

ブリュッセルに行くなら、鉄道の旅がオススメです。有名な国際特急、英国からのユーロスターや、フランス・オランダ・ドイツからのタリスに乗れば、高速かつ快適な旅が可能です。ただし、こうした国際特急は観光に便利なブリュッセル中央駅ではなく、ブリュッセル南駅にしか停まらないことが多いので、要注意ですが。。


ブリュッセル中央駅はプラットホームが地下にあります。私の二度目の訪問は2017年春でしたが、駅の外に向かう途中、機関銃を抱えた兵隊が警備中でした。2016年3月にはブリュッセルの国際空港や地下鉄駅で30人以上の死者を出した連続爆破テロがあり、過激派組織「イスラム国」(IS)が犯行声明を出しています。前年の15年11月には同じくISによるパリ同時多発テロ事件があり、その犯人たちはブリュッセルにアジトを構えていたと言います。国際都市ブリュッセルは世界の矛盾を説く過激派組織の格好の暗闘の場ともなっています。移民が増えて犯罪率が高くなっていると考える市民からは、外国人排斥の動きも強まっています。


 ブリュッセル中央駅 左の看板がフランス語、右の看板がオランダ語


そんなものものしい、警備の横を抜けるとヨーロッパらしい街並み、カフェやショコラティエを脇目に、少し坂を下っていくと、美しい広場に辿り着きます。ブリュッセルのシンボル、文豪ヴィクトル・ユゴーが「ヨーロッパで最も美しい広場」と称えた、グランプラス(Grand-Place)です。長方形の広場に面して、それぞれの建物が塔やオブジェで、華麗さを競っているようです。かつて、職人たちの組合(ギルド)の建物が集まって、並んでいた名残だそうです。グラン・プラスの周囲には15世紀に建てられた高さ96m(メートル)の市庁舎や、現在は市立博物館となっているネオ・ゴチック様式の「王の家」など華麗な歴史的建造物が並んでいます。カフェやレストランのテラス席に座れば、ヨーロッパの中心にいることを満喫できます。


 「最も美しい広場」グランプラス


4.ビール片手にフレンチフライとムール貝を

さて、グランプラスの周囲を歩いてみましょう。チョコレートやベルギーワッフルの店が至るところにあり、買い食いやお土産探しには絶好です。屋根付のアーケード、ギャルリ・サンチュベール(Galeries St-Hubert)は19世紀半ばにできた最古のアーケード商店街と言われます。


商店街を練り歩き、広場の周囲を回るように歩いていると、1ユーロ(安い!)の出来立てワッフルの店舗の近くに人だかり、何かな?と近寄ってみると、小便小僧のジュリアン君がそこに!「世界三大ガッカリ観光名所」と言われますが、確かに地味で小さくて、本当にガッカリします。モデルには諸説あって、少年ジュリアンは爆弾の導火線に小便をかけて町を救ったという謂れを持ちます。だから、小便小僧はブリュッセルを敵の侵略から守るシンボルなんですね。その裸一貫ぶりを心配されてか、友好の証としてやたら服をもらうみたいですが。


 ショコラティエ巡りが楽しい商店街 ギャルリ・サンチュベール

 小便小僧ジュリアン君


ブリュッセルの街を歩いていると、看板などで二つの言語が表記されていることに気付きます。先に述べた、フランス語とオランダ語です。確かに電車の中で車内放送や地元の人の会話は、専らこれら二つの言語のどちらかのようです。私たち旅行客にとってややこしいのは、観光局も二つに別れていて、フランダース観光局と、ワロン観光局が別々に存在しています。首都ブリュッセルは両方の観光局で扱われていますが、アントワープやブリュージュに行くならフランダース観光局、ナミュールやリエージュに行くならワロン観光局を参照することになります。


 駅のゴミ箱 こんなところにも両言語が併記


ブリュッセルの中心部には、王宮やアール・ヌーヴォー建築、美術館など見所が尽きません。王宮は現在も国王の執務宮殿となっていて普段は入場できませんが、夏の一時期には無料で一般公開されています。またベルギーは19世紀のアール・ヌーヴォー建築を先導、その第一人者たるヴィクトル・オルタの建築群がブリュッセルのそこここにあり、これも世界遺産に登録されています。


一通り歩き回って日暮れ近くなったら、是非ともグラン・プラスに戻りましょう。グラン・プラスは夜のライトアップが何とも幻想的でロマンチック。テラス席に座り、ベルギー名物のビールを飲みながら、フレンチフライ(要するにフライドポテト)をおつまみに夜景を楽しみましょう。フライドポテトはベルギー発祥なのに、何故かフレンチフライなんですよね。最初に英語圏に伝わったときにフランス人から伝わったという説もあるようで、何らかの誤解があったんでしょうね。ちなみにベルギーのフライドポテトは、マヨネーズを付けるのが標準です。


夕食をとる場合は、ムール貝もベルギーらしくてオススメです。なんと、ムール貝がバケツに入って出てきますよ。旅行前の私は、日本でムール貝を食べても何とも思わなかったのですが、ご当地で食べたら美味しくって、それ以来、日本でもよく食べるようになりました。


 ブリュッセル中心部のアール・ヌーヴォー建築 楽器博物館


ヨーロッパらしい街並みを眺めながら、食文化をのんびり堪能する、これこそ人生の至福の時です。大国同士の身勝手な論理に振り回されてきたベルギーが、そして国際都市ブリュッセルが、今後、多文化の共生する社会の象徴となり得るのでしょうか。ヨーロッパの中心で平和に思いを馳せる、ブリュッセルはまた訪れたい街です。

フランス事始め

政治から文化まで世界のモードを牽引してきたフランスを多面的に論じ、知識・理解を深めてもらうことで、我々の人生や社会を豊かにする一助とする。カテゴリーを「地理・社会」「観光」「料理」「ワイン」「歴史」「生活」「フランス語」と幅広く分類。横浜のフランス語教室に長年通う有志で執筆を手掛ける。徐々に記事を増やしていくとともに、カテゴリーも広げていく。フランス旅行に役立つ情報もふんだんに盛り込む。

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