『王妃マルゴ』を巡る物語  ~果てしなき宗教戦争がこじ開けた近世の扉

1、 稀代の淫婦マルゴ

フランスの映画に『王妃マルゴ』(La Reine Margot、1994年)というのがあります。19世紀の文豪アレクサンドル・デュマ(Alexandre Dumas)の原作で、マルゴを演じたのは名女優イザベル・アジャーニ(Isabelle Adjani)。「王妃マルゴ」の正式名は、マルグリット・ド・ヴァロワ(Marguerite de Valois)。ノストラダムスがその死を予言したフランス国王アンリ(Henri)2世とイタリアの大富豪の出で稀代の悪女と呼ばれるカトリーヌ・ド・メディシス(Catherine de Médicis)の娘であり、ヴァロワ朝断絶後にブルボン朝を興したアンリ4世の妻となった人物です。マルゴ自身が稀代の淫婦として知られ、血を分けた兄弟たちとも肉体関係を持ったと言われています。ストーリーの面白さもさることながら、この時代はフランスの宗教戦争であるユグノー戦争の真っただ中で、フランス革命に次ぐこの内乱状態を経てフランスが中世から近世へと脱皮した時代とあって歴史的にも興味をそそられるところです。

2、40年近く続いたユグノー戦争

映画『王妃マルゴ』はシャルル(Charles)9世の治世を扱っています。シャルル9世と言ってもピンとこないでしょう。時を巻き戻して、時代背景を説明します。16世紀のヨーロッパは宗教戦争に明け暮れた時代でした。この頃には中世キリスト教世界も制度疲労を起こしていて教会の腐敗が進み、ルターやカルヴァンなどが「聖書に立ち返れ」とプロテスタントを標榜して宗教改革を指導しました。カトリック教会側も失地回復を狙ってイエズス会で知られる反宗教改革運動で対抗、ここに新教と旧教が入り乱れた宗教戦争が17世紀前半まで繰り広げられます。

スイスで宗教改革運動を推進したカルヴァンはもともとフランス人とあって、フランス南西部を中心にカルヴァン主義が広がります。マックス・ウェーバーの指摘したように、勤勉に仕事をして富を蓄えることを推奨するカルヴァン主義は当時勃興してきた新興市民層に訴えた部分があり、フランスでは地中海貿易の盛んな南西部でプロテスタントが勢力を伸ばしてきたのです。フランスのカルヴァン派教徒をユグノー(huguenot)と命名したことからユグノー戦争と呼ばれた宗教戦争は1562年に始まり、第1次から第8次まで40年近く続くことになります。

3、カトリーヌ・ド・メディシスと4人の息子

翻って、フランス王室の流れを説明します。1328年にフィリップ6世が即位して始まったヴァロワ朝もすでに2世紀近く、シャルル8世が直系男子なくして隠れ、分家のオルレアン公がルイ12世として即位、そのルイ12世も世継ぎなく斃れると、そのまた分家のアングレーム公がフランソワ1世として即位、命脈を保ってきました。フランソワ1世はイタリア戦争に触発されてフランス・ルネサンスを確立しました。その次男アンリ2世は兄の死去で次の国王となりますが、フランソワ1世がその王妃に選んだのがフィレンツェの大富豪メディチ家の一人娘カトリーヌ・ド・メディシス(イタリア語名はカテリーナ・デ・メディチ)でした。カトリーヌは鼻ばかり大きい、小太りの醜女だったと伝えられます。

    カトリーヌ・ド・メディシス


参照:フランソワ1世については「フォンテーヌブロー宮殿」を参照のこと

銀行業で成り上がったメディチ家ですが、父親のロレンツォ・デ・メディチは政治力にも長けていて、あのマキャベリが『君主論』を上程した相手です。カトリーヌの持参金はフランソワ1世の散財によって窮地に陥っていたフランス王室財政を立て直すのにも役立ったようで、カトリーヌ自身も芸術の擁護者としてフランス文化の発展に寄与しました。現在の洗練されたフランス料理も、彼女が持ち込んだイタリア文化の影響があると言われます。

そのカトリーヌはオカルト好きで、ノストラダムス(正式名はミシェル・ド・ノートルダム)もお抱えの占星術師の一人でした。彼が出版した『諸世紀』において、一騎打ちの勝負で老いた獅子が目を破られ死に至る、といった文章が書かれていて、それが4年後に現実となったと伝えられます。つまり、アンリ2世は娘二人の結婚祝いの余興として催した騎馬槍試合で若い近衛隊長と対戦、その近衛隊長の槍が突いた衝撃で折れ、その破片がアンリ2世の兜の中に飛び込んで右目からこめかみへと突き抜けてしまった。その破片は脳まで達したようで摘出できず、アンリ2世はそのまま息を引き取りました。

アンリ2世にはカトリーヌとの間に成長した息子が4人いました。まず長男がフランソワ(François)2世として跡を継ぎますが、彼は耳鼻系の病気を持っていて、鼻づまりとともに耳からよく膿が垂れていたと言います。在位1年余りで、16歳で死去してしまいます。彼が14歳で結婚したのが、スコットランド女王として名高いメアリー・ステュアート(Mary Stuart)。

フランソワ2世とメアリー・スチュアート


父ジェームズ5世が急死し、兄2人も早世していたため、生まれてすぐにスコットランドの王位を継承します。この美貌の女王、イングランドの圧力を受けてフランスに保護を求めて育てられ、王太子フランソワとの婚約も成立します。メアリーの母親がフランスの権臣ギーズ公の出で、叔父のギーズ公フランソワが宮廷内で勢力を伸ばしてきます。ただ、メアリーは姑のカトリーヌを商人上がりと馬鹿にしていたようで折り合いが悪く、夫の死去とともにさっさとスコットランドに帰されてしまいます。

メアリーはその後も男運が悪く、戻ったスコットランドも新・旧教の対立激しく、再婚問題も絡んで廃位の憂き目に遭う。イングランドに逃れ縁戚でもあるエリザベス1世の庇護を求めたものの幽閉生活を強いられ、その間にイングランドの王位継承を主張してエリザベス1世の暗殺を図ったりして、最後には処刑されてしまいます。時に45歳。しかし、エリザベス女王の死によって息子がイングランド王ジェームズ1世(スコットランド王としてはジェームズ6世)として即位したのは歴史の皮肉でもあります。

さて、フランス王室はここでフランソワ2世の弟シャルル9世の即位となります。それまでも新教と旧教のいざこざは続いていましたが、ここに本格的なユグノー戦争が始まります。フランソワ2世の死で失脚したものの、ギーズ公フランソワは根っからの旧教派として勢力を保持しています。そのギーズ公一行が集会を行っていた新教派とシャンパーニュ地方の一都市でぶつかったのが、1562年3月のこと。半年後にはギーズ公フランソワが暗殺される。戦況は一進一退で、第2次、第3次とユグノー戦争が続いても一向に収まる気配がない。フランス王族はもちろん旧教派で、新教派が国王を誘拐して事を有利に運ぼうとするので、シャルル9世は母后カトリーヌと共に悲惨な逃避行を強いられる一幕もあったのです。

      シャルル9世


4、新・旧教融和にブルボン家に嫁いだマルゴ

そこで、母后カトリーヌは新教と旧教の融和政策、つまり新教徒の懐柔に乗り出します。フランス王室はもちろんカトリックを信奉していますが、宮廷内にも新教派の勢力があって呉越同舟の陰謀の坩堝と化しています。いつもその中心にいたのがカトリーヌです。王室にとっては王権の維持が最大の命題であって、そのためには宗教にも寛大にならなければなりません。そこで考えついたのが、娘マルゴを新教徒の若き指導者アンリ・ド・ブルボン(Henri de Bourbon)に嫁がせることでした。実はヴァロワ朝の血が途絶えたときには、親戚筋に当たるブルボン家が跡を継ぐことになっていたのです。

このアンリ・ド・ブルボンに至る系図は、かなりややこしい。まず王室の親戚筋と言っても、ヴァロワ朝より前のカペー朝まで何と十代三百年も遡らなければならない。フランスの真ん中辺りにブルボネという山岳地帯があり、そこの所領を相続したことで「ブルボン」を名乗ります。このブルボン家の分家の分家に当たり、ロワール川流域のヴァンドームを所領とするブルボン・ヴァンドーム家の当主がアンリの父アントワーヌ・ド・ブルボン(Antoine de Bourbon)でした。しかしこの時代、ブルボン家嫡流を含めてフランス王家はアンリ2世の血筋を除くと、このブルボン・ヴァンドーム家しか残っていなかったのです。それでもヴァロワ家は先王フランソワ2世が亡くなっていたとしても、現当主シャルル9世の他にその弟にアンジュ―公アンリ、アランソン公フランソワがいたのだから、ヴァロワ朝が途絶えてブルボン・ヴァンドーム家に王位のお鉢が回ってくるとはこの時点では考えられもしませんでした。

その経緯は後述するとして、アンリ・ド・ブルボンの母ジャンヌ・ダルブレ(Jeanne d’Albret)に触れない訳にはいきません。アルブレ家はボルドーを流れるガロンヌ川南部のガスコーニュと呼ばれる地方に広大な領地を有する権門です。婚姻政策を通じて所領を広げてきましたが、その一つがピレネー山脈を挟んでスペインとまたがるナヴァール王国でした。そのピレネー山脈南側は1512年にスペインに併合されてしまいますが、同山脈北側の低地帯はアルブレ家に残り「ナヴァール王」の称号を継承し続けます。

     ジャンヌ・ダルブレ


そして、ジャンヌの父アンリ・ダルブレが結婚したのがフランソワ1世の姉マルグリット、すなわちジャンヌの母です。彼女は文芸の庇護者として名を残しており、自身ボッカチオの『デカメロン』に触発されて短編物語集『エプタメロン』を執筆しています。再婚したマルグリットが北フランスの所領を持参してきたため、アルブレ家の領地はまた拡がっていました。

5、ガスコンの英雄アンリ・ド・ブルボン

つまり、アンリ・ド・ブルボンは父アントワーヌからフランス王家の相続権と、そのブルボン家をはるかに凌ぐ所領を母ジャンヌから相続するという、当時並ぶ者のない権勢を誇ることができたのです。彼はアンリ4世と名乗る前は、独立王国の当主として一般にナヴァール王アンリと呼ばれていました。アンリは母親の故郷ガスコーニュで生まれ育ちましたが、このガスコーニュは新教徒の牙城でもありました。ガスコーニュ人、すなわちガスコンは山がちな厳しい自然で育った分、気性の荒い田舎者とパリジャンからは馬鹿にされました。映画『王妃マルゴ』では、ガスコンをやたら「真っ黒でゴキブリみたい」「ニンニク臭い」と揶揄します。

  アンリ・ド・ブルボン(アンリ4世)


アンリは8歳になると、パリの宮廷で育てられます。父母ともに新教徒でしたが、ここで父アントワーヌがカトリックに改宗してしまいます。これは、カトリーヌ・ド・メディシスが懐柔したのです。カトリーヌはすこぶる美女の女官たちから成る「遊撃騎兵隊」というのを組織していて、彼女らをあらゆる要人たちのもとへ送り込むのです。寝技を駆使したスパイで、今で言うハニー・トラップですが、これに上手くアントワーヌが引っかかってしまったのです。

当然、妻のジャンヌは怒り、夫婦関係は冷え切ってしまいます。ちょうど第1次ユグノー戦争の火蓋が切って落とされた時期で、旧教側として国王総代に担ぎ上げられたアントワーヌは流れ弾に当たって死んでしまいます。カトリーヌは新教徒の懐柔にとジャンヌを説き伏せ、アンリとマルグリットの結婚にこぎ着けます。アンリの母ジャンヌはその結婚式の直前に結核で死にますが、カトリーヌが毒殺したとの噂が立ち、映画『王妃マルゴ』でも息子のアンリがそう口走っています。

6、愛人ラ・モル伯爵との出逢い

ここからが、『王妃マルゴ』の場面となります。映画と原作の小説とでは細かい点がかなり違っていますが、ここでは映画の描写から説明します。アンリとマルゴの結婚式はパリのノートルダム大聖堂で盛大に執り行われます。新郎新婦とも同い年の19歳。所詮は愛のない結婚、マルゴが宣誓に応ぜず兄のシャルル9世が頭を突き飛ばして無理強いするところから始まります。1972年8月18日のこと。マルゴは比類なき絶世の美女と称えられ、ギリシャ語やラテン語にも通じていて、宮廷の華だったと伝えられます(肖像画を見る限りはそこまで窺い知れませんが)。

    マルグリット・ド・ヴァロワ


アンリもマルゴも初夜を別の相手と過ごそうとします。マルゴは先のユグノー戦争で暗殺されたギーズ公フランソワの息子で、カトリック同盟の英雄的主導者アンリとデキてしまったところを母カトリーヌたちに見届けられてしまい、その仲を引き裂かれましたが、新婚初夜をこのギーズ公アンリ(Henri de Guise)と共にしようとする。片や、新郎のアンリにはカトリーヌが「遊撃騎兵隊」からソーヴ男爵夫人シャルロットを差し向けていた。アンリはそれでもマルゴの部屋へ行き、互いの盟約を結びます。夫婦関係はなくとも、マルゴは新教徒として宮廷に飛び込んだアンリをその後守ることとなります。ただ、邪魔の入ったマルゴは「男なしで夜は過ごせないわ」と、ギーズ公アンリの義姉で仲の良いヌヴェール公爵夫人アンリエット(Henriette de Nevers)とともに仮面を付けて夜のパリの街に繰り出します。

パリの街角には男どもがゴロゴロと寝そべっています。折しも泥棒に馬も荷物も盗まれた青年に出くわし、マルゴは彼に惹かれます。ジョゼフ・ボニファス・ド・ラ・モル(Joseph Boniface de La Môle)伯爵。二人は立位での激しいセックスに興じます。この辺りは原作の小説にもありませんが、ラ・モルというプロヴァンス地方から来たユグノーの貴族がマルゴの愛人だったことは確かなようです。

映画ではギーズ公フランソワの差し金によって、ラ・モルの父親は家臣のルーヴィエ・ド・モールヴェルによって殺されたということになっています。ラ・モルは亡き父の友人で宮廷で権勢を振るう新教徒派のガスパール・ド・コリニー(Gaspard de Coligny)提督を訪ねて来たとのことです。泥棒に襲われて無一文になったラ・モルは残った父の所蔵品である狩猟の立派な書籍を売りに出しますが、この書籍が後でとんでもない事件を引き起こします。

7、血塗られた婚儀となった「聖バルテルミーの虐殺」

そうこうする間にも、王家の結婚の祝宴は4日間にわたって続きます。この結婚を祝うために、パリには全国から旧教徒も新教徒も集まって来ていました。そこで大事件が起きたのです。祝宴の最終日の8月22日、ラ・モルが訪ねようとしたコリニー提督が路上で狙撃されたのです。これを指示したのがカトリーヌ、実行犯はラ・モルの父親を殺したことになっている刺客モールヴェルでした。しかしコリニー提督を狙った弾は急所を外れ、一命を取り留めます。パリに集結していた新教徒たちは騒然となります。いずれこの仕業がカトリーヌの手になることは、知れ渡るだろう。その前に手を打たなければならない。そう考えたカトリーヌは新教徒の皆殺しを決意します。これに息子のシャルル9世は最終的に同意したのだが、ここにこの母子の複雑な人間関係が絡んでいます。

実は、母后カトリーヌが最も可愛がっていたのは、シャルル9世の弟アンジュ―公アンリ。シャルル9世は父アンリ2世が不慮の事故で死んだ時には、まだ9歳の子供でした。実母にも愛されず育ったシャルル9世が父として慕ったのがコリニー提督だったのです。そのころフランスに連なる低地諸州(現在のオランダ、ベルギー)の新教徒がスペイン・ハプスブルク家からの独立を目指して反乱を起こしていて、狂信的な新教徒であるコリニー提督はその救援にフランス軍を投入すべきだと主張していました。しかし、それでは当時ヨーロッパ最大の強国で旧教徒の牙城であるスペインを敵に回すことになる。そう考えたカトリーヌは新教徒との融和政策を変えることになったと思われます。あるいは、初めから娘の婚儀を機に集結したユグノーを根絶やしにしようと目論んでいたのか。しかし、コリニー提督を父と慕っていたシャルル9世が納得するはずはない。神経質で、すぐに錯乱状態に陥るシャルル9世は母后に説得されてやけになったのか、「ユグノーは皆殺しにしてしまえ」との指令を出してしまうのです。

世に悪名高い「聖バルテルミーの虐殺」の始まりです。8月24日は聖バルテルミー(Saint-Barthélemy)の祝日で、その日に日付が変わるや否や国王の指令は実行に移されました。その先頭に立ったのがギーズ公アンリ。まずは結婚式のためにルーヴル宮に宿泊していた新教徒たちがその餌食となり、それがパリ中に、さらにフランス全土に広がるのです。街角には断末魔の叫びとともに血まみれの死体がそこここに転がり、共同墓地にうず高く積まれます。犠牲者はパリだけで3000人内外、フランス全体では2万人近くに上ったと伝えられます。コリニー提督の屋敷も襲われ、今度こそ死んでしまいます。ギーズ公アンリにとって、コリニー提督は父フランソワを暗殺した仇とされます。

    聖バルテルミーの虐殺(フランソワ・デュボワ画)


新郎のナヴァール王アンリ・ド・ブルボンはどうしたか。国王の部屋に逃げ込み、そこでカトリックへの改宗の求めに応じたのです。その後、アンリは長くルーヴル宮に半ば監禁状態となります。一方、新教徒ラ・モルは追われて重傷を負ったものの逃れてたまたま飛び込んだところがマルゴが持つ市中の屋敷で、彼女が追っ手を追い出したことで再会を喜び、愛を確かめ合う。二人はその後逢瀬を重ねますが、淫婦マルゴは彼に本当の愛を見出したことになっています。

8、シャルル9世の死とアンリ3世の即位

映画では、アンリ・ド・ブルボンが一緒に狩猟に出かけたシャルル9世がイノシシに足を噛みつかれたところを助けたとして、シャルルがアンリに後事を託すほどに二人の仲が急接近します。そこで、危機感を抱いたカトリーヌはアンリの暗殺を試みます。ラ・モルが売った狩猟の本が偶然に手許にあって、古い本のためにページがくっついているのをいいことにそこにヒ素系の毒をしみ込ませました。それを末息子のアランソン公フランソワに命じて、アンリがそれを読むように彼の部屋に忍び込ませます。

人はよく指を唾で湿らせてくっついたページをばらします。それを狙ったわけですが、まずいことにそれに引っかかったのはたまたまアンリの部屋を訪れたシャルル9世の方でした。毒は徐々にシャルル9世の体を蝕み、腹に激痛が走るようになります。最後には体中に血の汗がまみれ、母親を恨みながらマルゴの腕の中で息を引き取ります。24歳という若さでした。実際には結核を患った結果と言われますが、彼は自ら発した聖バルテルミーの虐殺後は精神状態が完全におかしくなっていて、最期は自らの罪を悔いて「願わくば主イエスが余の魂を贖罪者の列に加えて下さるよう」と祈るのでした。映画でのシャルルの演技は圧巻でした。

シャルル9世に男子はなく、弟のアンジュ―公アンリがアンリ3世として即位します。アンジュ―公はその時、ポーランド王に収まっていました。当時のポーランドは14世紀以来のヤゲロー朝が断絶、中小貴族の選挙の末にアンジュ―公アンリが選出されたのです。カトリーヌが最愛の息子を王位にしようと押し込んだ形でした。しかし、そのポーランド王位は世襲が認められていませんでした。そこで兄の急死の報せを受けて、5カ月の在位で逃げるようにパリに立ち返り、フランス王位を継ぎます。

       アンリ3世


ちなみに、『王妃マルゴ』にはナヴァール王アンリ・ド・ブルボン、アンジュ―公アンリ、ギーズ公アンリと3人のアンリが登場しますが、これは皆、アンリ2世から名前を貰ったからで、映画では混乱しないようアンジュ―公アンリは「アンジュ―」、ギーズ公アンリは「ギーズ」と呼び習わしています。最後の第8次ユグノー戦争ではこの三者が相まみえることになりますが、「三(トゥロワ=trois)アンリの戦い」と呼ばれるその闘争はまだ先のことです。ただ、3人とも最後には暗殺される共通の運命を辿るとは皮肉です。

9、ラ・モルの処刑を嘆くマルゴ

話は戻ります。カトリーヌは息子シャルル9世を死に至らしめようとしている書籍の持ち主がラ・モルだったことを知り、自分の罪を彼になすりつけようとします。そのラ・モルは新教徒たちの中にいて、アンリ・ド・ブルボンに要請されて宮廷に閉じ込められているマルゴの救出にと盟友アニバル・ド・ココナス(Annibal de Coconas)伯爵とともに向かいます。旧教徒のココナスは聖バルテルミーの虐殺の際にはラ・モルを殺しにかかりますが、何の因果かその後兄弟の契りを結ぶこととなります。しかし、二人はギーズ公アンリに捕まってしまい、処刑されてしまいます。マルゴは瀕死の病床にあった兄のシャルル9世に助命を幾度も嘆願しますが、母親が真犯人とあっては王権の維持も難しいとシャルルは最後まで拒み続けたのです。

史実としては、ラ・モルはココナスと共にアランソン公フランソワの臣下となっていて、その命で敵対関係にあったシャルル9世の誘拐に向かったところを母后カトリーヌに嗅ぎつけられて捕らえられたと伝えられます。ただ映画にもあるように、マルゴがヌヴェール公爵夫人アンリエットとともにラ・モルの首をさらし台から盗み出して、防腐措置を施して保存したことは史実と言われます。映画はマルゴが馬車でラ・モルの首を膝に抱えて過ぎ去るところで終わっています。なお、デュマの小説では、互いの友人アンリエットとココナスも愛人関係にあったという設定にしています。

10、「三アンリの戦い」を経てブルボン朝成立へ

しかし、ユグノー戦争はまだまだ続きます。ここでカトリーヌの末息子アランソン公フランソワが表面に出てくる。彼は末息子ということで、何かと不遇をかこっている。王位にこだわる彼は宗教的対立よりも世俗的権威を重視して「ポリティーク派」を結集し、旧教徒と新教徒のそれぞれの勢力と並んで三つ巴の戦いとなります。アランソン公の狙うのはハプスブルク家からの独立を目指す低地諸州ネーデルラントの王位です。旧教徒派も新教徒派もポリティーク派を抱き込んで主導権を握ろうと画策しますが、アランソン公はネーデルラントでの覇権確立に失敗し、挙げ句はその失意からか結核を発症して死んでしまうのです。

   アランソン公フランソワ


こうなると、ヴァロワ朝の断絶が現実問題となってくる。アンリ3世に子はなく、男色との疑いも強い。そうなると、次の王位継承者は勢いナヴァール王アンリ・ド・ブルボンということになります。しかし、新教徒の王を頂くことは旧教徒派にとっては許されざることで、その急先鋒ギーズ公アンリはアンリ・ド・ブルボンの叔父の聖職者(当然に旧教徒)を担ぎ出して抵抗しようとします。アンリ3世は王権の維持にアンリ・ド・ブルボンを改宗させようとしますが、応じません。ここにアンリ3世、ナヴァール王アンリ・ド・ブルボン、ギーズ公アンリによる「三アンリの戦い」(第8次宗教戦争)となるのです。

アンリ3世はアンリ・ド・ブルボン率いる新教徒軍に大敗を喫したうえ、ギーズ公アンリからはパリを追い出されてしまいます。そこで、アンリ3世は近衛兵を使ってブロワ城にいたギーズ公アンリを暗殺する挙に出ます。その直後、アンリ3世の最大の理解者であった母后カトリーヌ・ド・メディシスが死去してしまいます。後ろ盾を失ったアンリ3世はアンリ・ド・ブルボンと手を結び、旧教徒の籠るパリ包囲戦を敢行しました。

      ギーズ公アンリ


その陣中に一人のドミニコ会修道士が「パリからの手紙を託された」とアンリ3世の許を訪れ、隙を見て短剣で刺し殺してしまいました。旧教徒派の総帥ギーズ公アンリが暗殺された意趣返しを果たしたのです。今わの際にアンリ3世はその場に駆けつけたアンリ・ド・ブルボンを後継者に指名し、周囲にもそれを認めさせました。これによってヴァロワ朝は終焉を迎え、ブルボン朝の誕生となったのです。1589年8月のことでした。ノストラダムスとかはアンリ4世の即位を予言していたとも伝えられますが、数々の陰謀を巡らせたカトリーヌ・ド・メディシスのヴァロワ朝を守り切るという執念も自らの死の直後に潰えたのです。

   アンリ3世の暗殺(フランス・ホーゲンベルク画)


11、宗教戦争を終結させた「ナントの勅令」

しかし、アンリ・ド・ブルボンことアンリ4世はすんなりと即位できたわけではありません。旧教徒の籠るパリからは撤退し、周辺の旧教同盟都市を一つ一つ個別撃破していきます。フランスの大半がドミノ式に王家に服属しますがパリはなかなか落ちず、アンリ4世はカトリックに改宗すると宣言、シャルトル大聖堂での戴冠式を経てパリへ入場できたのは1594年3月に至ってからでした。

ギーズ公アンリの弟マイエンヌ公シャルルの籠るパリの旧教同盟とは和解、破門されていたローマ教皇からも赦免され、戦争となったスペインも兵を引き上げるしかなくなりました。アンリ4世は1598年、プロテスタントに信教の自由を認めた有名な「ナントの勅令」を発布、ここにユグノー戦争は終結します。その後は中小貴族のシュリー公爵を財務総監に抜擢し、内乱に明け暮れた国土の立て直しに力を入れます。

フランスの内乱を収束せしめたアンリ4世は、その豪放磊落な性格と相まって後世には「アンリ大王」と称され、フランスきっての愛される国王です。ルーヴル宮に軟禁されている状況にあっても殺されることなく、「もう逃げ出さないだろう」と安心させたところで逃亡を決行するといったずる賢さも兼ね備えています。窮地に陥って旧教に改宗したかと思うとまた新教に戻すという風に改宗を繰り返すこと生涯で5回、どこまでも現実的なその姿にはどこか無頓着な性格があるようです。

ヨーロッパ中世は基本的にキリスト教世界でしたが、その宗教から隔絶してどこまでも現世的な近世の扉をこじ開けたと言えそうです。一方その精力たるや、どんな苦境に立とうと愛人作りには寸暇を惜しまず、生涯の愛人数は70人余りに上ったと言われます。では、王妃マルゴとはその後どうなったのか。

12、アンリとマルゴのその後

マルゴは夫アンリ・ド・ブルボンがパリの宮廷から抜け出したあと兄のアンリ3世の許に留まっていたものの、仲違いしてパリを離れます。マルゴはマルゴで勝手に愛人を渡り歩き、時に旧教同盟にも肩入れして夫アンリを悩ませる。しかし、つかず離れずなのがこの夫婦なのか、決定的な決裂には至らない。

離婚が現実味を帯びたのは、アンリ4世の後継者問題が浮上してからです。二人の間には子供がいない。アンリ4世が自分の息子を後継ぎにしようとすれば、キリスト教世界においてはマルゴとは離婚して再婚することが前提となります。そのころアンリ4世はカブリエル・デストレ(Gabrielle d’Estrées)という愛人に惚れ込んでいて、すでに男子も産まれていました。アンリ4世は彼女との再婚を望んでいたようですが、離婚そのものには反対しないマルゴもアンリ4世側近とともにこれには反対。「王妃になるには身分が低過ぎる」というのが反対の理由です。そこで浮上したのが、マルゴの母親の血筋につながるトスカナ大公の娘だったマリー・ド・メディシス(Marie de Médicis、イタリア名はマリア・デ・メディチ)でした。

これにはマルゴも反対せず、ローマ教皇庁もアンリ4世とマルゴの結婚をそもそも無効と認め、両者の離婚が成立しました。マリー・ド・メディシスとの再婚は、アンリ4世とすればメディチ家からの持参金も魅力的だったでしょう。二人の間には晴れて男子も誕生します。後のルイ13世です。先妻マルゴも自分の母親を通じて血のつながるルイをよく可愛がったと言われます。

アンリ4世と家族(フランス・ポルビュス画)


治安を取り戻したかにみえるフランスも、まだ新王朝に対する不満の種は燻り続けます。アンリ4世に対する暗殺の企ては後を絶たず、1610年5月14日に遂に凶弾に倒れます。馬車で移動中に狂信的なカトリック教徒に短剣で心臓や肺を突き刺され、程なく絶命しました。56歳でした。しかし、彼の築いたブルボン朝はその後盤石な体制を固めていき、孫の太陽王ルイ14世の時代にその最盛期を迎えることとなります。マルゴが亡くなったのはその5年後、1615年5月27日のこと(享年62歳)で、最後までブルボン王家とは良好な関係を保ったというから不思議な夫婦です。

フランス事始め

政治から文化まで世界のモードを牽引してきたフランスを多面的に論じ、知識・理解を深めてもらうことで、我々の人生や社会を豊かにする一助とする。カテゴリーを「地理・社会」「観光」「料理」「ワイン」「歴史」「生活」「フランス語」と幅広く分類。横浜のフランス語教室に長年通う有志で執筆を手掛ける。徐々に記事を増やしていくとともに、カテゴリーも広げていく。フランス旅行に役立つ情報もふんだんに盛り込む。

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