シュノンソー城/アンボワーズ城(ロワール古城)

1.300もの古城の佇むロワール地方

ロワール(Loire)の古城巡りは、フランス観光のハイライトの一つです。フランス中部のロワール川流域に広がるロワール渓谷には中世以来、王家や貴族の居館として300以上の古城が立ち並び、「フランスの庭」と呼ばれ世界遺産にも登録されています。森の中の川沿いにたたずむその姿は時の建築・装飾様式をふんだんに取り入れた贅を尽くしたものばかりで、その優美さが何ともロマンチックな感情をかき立てます。英仏百年戦争(1339-1453年)後の長い期間、政務の中心はパリを離れてこの地に移っていただけに、ロワール地方はフランス文化の凝結した場所であるとともに、数々の血なまぐさい闘争も繰り広げられた政治の舞台でもありました。ここでは、美しさではピカ一と思われるシュノンソー(Chenonceau)城と、レオナルド・ダ・ヴィンチが晩年を過ごしたアンボワーズ(Amboise)城を取り上げます。

ロワール地方はパリの南西200㌔㍍ほどにあり、車で約3時間かかります。パリから、あるいはロワール地方の中心都市トゥール(Tours)から多くの一日・半日観光バスツアーが出ています。古城はいずれも渓谷の不便な場所にあるだけに、一日で回る古城はせいぜい2カ所というのが普通です。

我々も当初はパリから鉄道とローカルバスを利用しての日帰り個人旅行を計画しましたが、交通の便の悪さにこれを断念。パリからの一日観光バスツアーに切り替えました。訪れたのがシュノンソー城とアンボワーズ城の2カ所。いずれも貴族の単なる城砦だったのをフランス王家が引き継ぎ、華麗な居住空間へと変身させた城です。日帰りといってもパリの旅行会社への集合が朝7時前で、戻って来たのは午後8時という長旅でした。その時のツアーにはなぜかスペイン人が多く、案内はフランス語とスペイン語、英語でした。日本語のツアーだと少し割高となります。2つの古城の観光は、自由行動としました。ガイドをつけるとやなり割高となります。古城を改装したホテルも数多くあるようで、多くの古城を訪れるにはそうしたシャトーホテルに泊まるのもいいかと思います。

2、王妃カトリーヌと愛妾ディアーヌの物語

シュノンソー城はロワール川の支流シェール川沿いにあり、川をまたぐように白い城館がたたずんでいます。川向こうの城館が水面に映え、まるでお城が川面に浮いているかのようです。敷地の入り口は川とは反対側にあり、長い並木道を通って城館に辿り着きます。城館を挟むようにして川沿いの両側に2つの庭園があります。右に「カトリーヌの庭園」、左に「ディアーヌの庭園」。シュノンソー城は城主が代々女性で、「6人の女の城」と呼ばれます。うち2人がカトリーヌ・ド・メディシス(Catherine de Médicis)とディアーヌ・ド・ポワティエ(Diane de Poitiers)。カトリーヌはノストラダムスがその死を予言したアンリ(Henri)2世の王妃、ディアーヌはアンリ2世の愛妾でした。そこに一つの物語があります。

       シェール川から見たシュノンソー城


         正面から見たシュノンソー城


アンリ2世の少年時代は不遇なものでした。父フランソワ(François)1世はフランス・ルネサンスの立役者として名を残しますが、父親としては無責任極まりない。先代からのイタリアへの夢に憑りつかれてさんざんイタリアに攻め込むものの、神聖ローマ皇帝であるハプスブルク家の宿敵カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)との戦いに敗れ、自ら捕虜になってしまいます。そこで結ばれたマドリッド条約により、自らの釈放と引き換えに大幅な領土割譲とともに、王太子の長男フランソワと次男アンリとを人質として差し出します。先に王妃を亡くしていたフランソワ1世はマドリッド抑留中にカール5世の姉エレオノールとデキてしまい、パリに帰還する際に彼女をちゃっかり連れて帰り、結婚してしまいます。

        アンリ2世


マドリッドに連れて行かれたアンリは時に7歳。ピレネー山脈を流れる川を渡って引き渡しが行われましたが、それを見送る家臣たちの関心は帰還すれば王位が約束されている一歳年上のフランソワにしかありませんでした。幼時に母親を亡くしているアンリは、常に孤独の境遇にありました。その引き渡しの船に乗る段になって、アンリの許へ歩み寄り、彼を温かく抱きしめた女官がいました。それが、ディアーヌ・ド・ポワティエだったのです。ディアーヌはアンリの母親と同い年の19歳年上ですが、アンリには生涯忘れられない女性となりました。

   ディアーヌ・ド・ポワティエ


フランソワとアンリの兄弟は幽閉先で最初こそ丁重に扱われましたが、その待遇が急激に変わることとなります。パリに帰還した父フランソワ1世がマドリッド条約を破棄し、またぞろハプスブルク家を相手に戦争を始めてしまうのです。カール5世の怒らんことか。二人の王子は石が剥き出しの壁に、床にはワラ布団が敷かれているだけの牢屋で苛酷な人質生活を送ることとなります。殺されなかっただけ幸運だったとも言えるでしょうか。

しかし、事態は好転します。戦況は次第にフランス軍の優勢となり、今度はカンブレ条約によってカール5世側が大幅譲歩し、二人の王子は莫大な身代金支払いと引き換えに解放されることとなります。二人の王子のスペインでの幽閉期間は実に4年に及びました。時に1530年。パリに帰還したアンリはほとんど口を利かず、笑わない気難しい性格になっていたと言われます。

ただ、そこにはディアーヌとの再会がありました。夫に先立たれていたディアーヌはその時32歳、12歳だったアンリは彼女に母親の郷愁を感じたでしょうが、程なくして二人は男女の関係に発展します。しかし、アンリは14歳で父親の独断でイタリアの大富豪の娘カトリーヌ・ド・メディシスと結婚させられます。はるか年上でも美貌を保ち続けるディアーヌと、若いが醜女だったカトリーヌでは、アンリの愛情の行方は想像がつくというものです。その3年後には兄フランソワが急逝、アンリは王太子となります。アンリ2世としての即位は、父フランソワ1世の死去に伴う1547年のことでした。アンリが寵姫ディアーヌに授けたのがシュノンソー城だったのです。

    カトリーヌ・ド・メディシス


参照:カトリーヌ・ド・メディシスについては「『王妃マルゴ』を巡る物語」を参照のこと

しかし、そのアンリ2世は騎馬槍試合で対戦した近衛隊長の槍が折れ、弾けた破片がアンリの兜の中に飛び込み、それが脳まで達して死んでしまいます。1559年のことでした。これは、占星術師ノストラダムスが4年前に予言したこととして、世に知られています。そうなると、宮廷にもはやディアーヌの居場所はありません。ディアーヌは自分の領地に引き下がりますが、愛妾に夫の愛情を奪われた正妻の積年の怨みが噴出するのは世上よく見受けられるところです。ディアーヌには前王フランソワ1世の死去に際して、政治的に対立していたその寵姫エタンプ公爵夫人アンヌ・ド・ピスリー(Anne de Pisseleu)を追放した挙げ句、散々に苛め抜いたという“前科”があります。しかし、稀代の悪女として知られるカトリーヌですが、ここはなぜか寛大な処置で済ませました。ただ、夫アンリがディアーヌに贈呈したシュノンソー城は取り上げてしまいました。

          「ディアーヌの庭園」


          「カトリーヌの庭園」


3、女性城主が住んだ数々の部屋

その女の情念の渦巻くシュノンソー城に入ってみましょう。一階には衛兵室や礼拝堂とともに「ディアーヌ・ド・ポワティエの寝室」、二階に上がると「カトリーヌ・ド・メディシスの寝室」とともにメディシス家所蔵の絵画や彫像、家具調度などを展示したギャラリーがあります。

「ディアーヌ・ド・ポワティエの寝室」には聖書の場面を描いた2枚の大きなタペストリーとともに、なぜかアンリ2世とカトリーヌの頭文字「H」「C」が刻まれた暖炉があり、カトリーヌの肖像画さえあります。

      「ディアーヌ・ド・ポワティエの寝室」


「カトリーヌ・ド・メディシスの寝室」にも同様のイニシャルやタペストリーがありますが、植物をかたどった緑に彩色された格天井や、美しい彫刻の施された家具調度が目を引きます。

     「カトリーヌ・ド・メディシスの寝室」


他に、アンリ2世の息子アンリ3世の死去後にここに隠棲した王妃「ルイーズ・ド・ロレーヌの寝室」や、ブルボン朝の始祖アンリ4世の愛妾「ガブリエル・デストレの寝室」などがあります。国王の居室としては、ルネサンス様式の傑作に数えられる暖炉のある「フランソワ1世のサロン」や、同城を訪れたことのある太陽王「ルイ14世のサロン」などもあります。

4、ブルターニュ公女を奪い取ったシャルル8世

一方のアンボワーズ城はシュノンソー城から比較的近い。駐車場から城へ向かう道にはレストランやカフェが立ち並び結構賑やかな雰囲気です。ロワール川沿いの高台に立っていて、城から見下ろすロワール川の美しさは格別です。

アンボワーズ城(左奥)へ続く道にレストランやカフェが並ぶ


      アンボワーズ城からロワール川を望む


アンボワーズ城で特筆すべきなのは、アンリ2世からは3代前の国王シャルル(Charles)8世。シャルル8世はこの城で父ルイ(Louis)11世の待望の後継ぎとして産まれ、半ば軟禁状態で大切に育てられました。イタリアへの夢に憑りつかれ、フランス王家がアンジュ―公領を受け継いだことを盾にナポリ遠征を企て、その後何代にも渡るイタリア遠征の先駆けとなりました。そのイタリア遠征時にルネサンス文化に触れ、イタリアから芸術家や職人を連れ帰ると、それまで要塞に過ぎなかったアンボワーズ城の大規模な改修工事に着手しました。

城砦の一段高い所に建てた「シャルル8世の居室」には螺旋形の「ミニムの搭」がそびえ立ち、この居室によって仕切られた3つの庭(ナポリの庭園など)を整備しました。

   「ナポリの庭園」から見た「シャルル8世の棟」


シャルル8世のイタリアへの夢は潰えましたが、それまで独立王国として存在していたフランス北西部のブルターニュ公国の併合への道を開いたことは彼の事績として伝えられます。当時のブルターニュ公国のフランソワ2世には娘しかおらず、長女のアンヌが筆頭相続人でした。これに対して、ハプスブルク家のマクシミリアン1世はブルゴーニュ公国の後継ぎマリーと結婚したものの、これに先立たれ、今度はブルターニュ公国のアンヌと結婚する運びとなっていました。そこでシャルル8世はブルターニュに侵攻し、アンヌを自らの王妃として迎えることを認めさせたのでした。婚姻政策を通じてヨーロッパ全土に版図を広げたハプスブルク家ですが、ブルゴーニュ戦争を通じてフランドル地方の領有を断念したフランス王家としてはここで一矢を報いた形となりました。

シャルル8世がアンヌ・ド・ブルターニュ(Anne de Bretaghe)と結婚したのは1491年、このアンボワーズ城で生涯を過ごします。しかし、夫妻がポーム球戯(テニスの原型)の観戦にと向かっていたとき、シャルル8世は回廊の柱に頭をぶつけて死んでしまいます。28歳の若さでした。夫妻には4人の子供が産まれましたが、みな夭折、王位は親戚筋オルレアン家のルイ12世へと移ります。

「シャルル8世の棟」に掲げられたシャルル8世とアンヌ・ド・ブルターニュの肖像画


そのルイ12世も嗣子なくして死ぬと、王位を継いだのがそのまた親戚筋アングレーム家のフランソワ1世でした。フランソワ1世は「フランス・ルネサンスの父」と呼ばれるほど、シャルル8世の遺志を継いでイタリアへの遠征を繰り返し、その文化のエキスをフランスへと注入します。イタリアで不遇をかこっていたレオナルド・ダ・ヴィンチをここアンボワーズ城に迎え入れ、同城の敷地内にはレオナルドの墓とともに胸像があります。


参照:フランソワ1世については「フォンテーヌブロー宮殿」を参照のこと

5、血塗られた歴史に彩られたロワール古城

そうしたフランス・ルネサンスの粋を集めたアンボワーズ城ですが、同時にフランスの宗教戦争(ユグノー戦争)の発端ともなります。フランソワ1世の時代は宗教改革の波が高まりをみせていた時代で、新教徒たちがフランス国中に檄文を張り出す事件がありました。その檄文はアンボワーズ城にいたフランソワ1世の寝室の扉にも張り出されました。それまで新教にも寛容だったフランソワ1世もこれには激怒、態度を改めて異端撲滅に乗り出し、200~300人の逮捕者を出しました(1540年)。

次の長男フランソワ2世の時代には「アンボワーズ事件」(1560年)が起きます。新教派がアンボワーズ城にいるフランソワ2世の誘拐を計画しますが、それを事前に察知した旧教派の総帥ギーズ公フランソワが先制攻撃を仕掛けて攻め滅ぼし、首謀者52人を処刑して城門にその遺体を晒したのです。これがその後の40年近くに及ぶ宗教戦争に繋がることとなります。

その宗教戦争が終結して王位がブルボン朝に移るとアンボワーズ城は衰退し、その所有主も転々とします。ナポレオン失脚後の王政復古時代にアンボワーズ城を譲り受けたのは7月革命(1830年)後に王位に就いたオルレアン公ルイ・フィリップ(Louis Philippe)で、場内にはこのオルレアン家に所縁のある部屋や調度品も多くあります。

         「オルレアン家の居室」


ここに紹介したシュノンソー城とアンボーズ城とともに、ロワールの古城巡りのツアーに多く組み入れられているのがシャンボール(Chambord)城。ルネサンス文化に触れたフランソワ1世がイタリア遠征から帰って早速手がけた城で、ロワールの古城随一の広さを誇ります。レオナルド・ダ・ヴィンチの考案ともいう、人がすれ違わないで上り下りできる二重螺旋階段が有名。失われていた18世紀のフランス式庭園が2017年に復元された。

もう一つ、歴史的に見逃せないのがブロワ(Blois)城。ブロワの街中にあり、駅にも近く訪れやすい。ブロワ城は多くの国王が居住した中世の政治の舞台でもあり、増改築が繰り返されたため様々な建築様式が混在しています。ルイ12世棟はゴチック様式、フランソワ1世棟はルネサンス様式といった具合に。宗教戦争時には、旧教徒の首魁で人気もあったギーズ公アンリ(ギーズ公フランソワの息子)が、新教徒との妥協を望むアンリ3世の命で刺客に暗殺された(1588年)場所として有名です。フランソワ1世棟にはその部屋も残っています。アンリ3世も翌年には暗殺され、王位はブルボン家のアンリ4世へと移ります。

フランス事始め

政治から文化まで世界のモードを牽引してきたフランスを多面的に論じ、知識・理解を深めてもらうことで、我々の人生や社会を豊かにする一助とする。カテゴリーを「地理・社会」「観光」「料理」「ワイン」「歴史」「生活」「フランス語」と幅広く分類。横浜のフランス語教室に長年通う有志で執筆を手掛ける。徐々に記事を増やしていくとともに、カテゴリーも広げていく。フランス旅行に役立つ情報もふんだんに盛り込む。

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